ヴァイオレット・エヴァーガーデン 上巻

ヴァイオレット・エヴァーガーデン 上巻

  • 著者:暁 佳奈
  • イラスト:高瀬亜貴子

『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』。

 その名が騒がれたのはもう随分ずいぶん前のことだ。製作者は機械人形の権威であるオーランド博士。彼の妻であるモリーが小説家で、後天的こうてんてきに視力を失ったのがそもそもの始まりである。

 盲目もうもくの女になったモリーはその人生の大半でおこなってきた小説活動が出来なくなったことにひどく落胆らくたんし、日に日に衰弱すいじゃくしていった。

 そんな妻を見かねてオーランド博士が作ったのが自動手記人形オート・メモリーズ・ドールである。

 肉声の言葉を書きしるすという、いわゆる「代筆だいひつ」をこなしてくれる機械だ。

 当初は愛する妻の為だけに作られたが、後に多くの人々の支えとなり、普及した。

 今現在では、自動手記人形オート・メモリーズ・ドール安価あんかで貸し出し、提供する機関も出来ている。

 

 

 

「小説家と自動手記人形オート・メモリーズ・ドール

 

 

 

 ロズウェルは緑に囲まれた美しい自然の都だ。

 標高の高い山々、ふもとの街。そこ一帯を示す。しかし資産に余裕がある者達の中でなら、ロズウェルは避暑地、または別荘地として名を知られている。

 春は花あふれる山河が人々の目を楽しませ、夏は名所として歴史深い大滝にいこいを求め、秋は落葉の雨に心打たれ、冬は世界全てがしんとした静寂せいじゃくを与えてくれる。四季の移ろいがとてもわかりやすく、観光で季節の折に訪れるには充分目を楽しませてくれる土地だ。

 別荘は麓の街に連なって作られている。色とりどりのペンキで塗られた木造小屋。大きなものから小さなものまで。土地代はかなり高額なのでそこに別荘を作れること自体が富裕層であることの証だ。

 街には観光客向けの商店が溢れている。休息日には店が連なるメインストリートに人がごった返し、心地よい喧騒の音楽を織りなす。その品揃えは田舎だからと言って馬鹿には出来ない。

 大抵の者は利便性を求めて街中に別荘を建てるので、それ以外の場所に家を建築するものは変わり者とされている。

 現在のロズウェルの季節は天高くうろこ雲がただよう秋。麓から離れて、この街の観光地の中ではさほど重要視されていない小さな湖の近くにひっそりと建つ小屋が一軒。

 良い方に表現すればおもむき深い顔立ちに味がある古民家。悪い方に言えば人に見捨てられたかのような有り様のうらぶれた家だ。色せた白で塗られたアーチの門をくぐり、雑草や名も無き花に埋もれた庭を進むと全景が見える。

 修繕をする気がなさそうな朽ちた赤煉瓦れんがの壁。屋根瓦はあちこち割れ、かつては整然としていたのであろうそれは無残にがれている。

 家の玄関のすぐ横にはつたが絡まり、もはや誰も動かすことが出来ないブランコが。それはこの家にかつては小さな子どもがいた証拠でもあり、もういないという証拠でもあった。

 家の持ち主は壮年の男性でオスカーという。

 その名前のまま、執筆業をしている脚本家だ。くせのある赤毛の持ち主で、レンズの分厚い黒縁の眼鏡をかけている。実年齢よりは若く見えがちな童顔で少し猫背。寒がりの為にいつもセーターを着ている。何かの話の主人公には成れそうにない、まったくの普通の男だ。

 家はオスカーの別荘としてではなく、純粋にこの地に住むために建設された。

 彼一人ではなく妻と幼い娘も住めるようにと。三人家族が住むには充分すぎる間取りであったが、今はオスカーしか住んでいない。どちらも既に他界している。

 オスカーの妻が死んだ原因は病気だった。名前は長ったらしすぎて、言えないほど。

 簡単に言えば血液が血管の中で凝固ぎょうこし、まって死ぬ。しかも遺伝性があり、彼の妻は父親からそれを受け継いでいた。

 早死にが多い家系だからみなしごなのだと、寂しく言っていた身寄りのない妻のその真意を知ったのは彼女が死んでから。

『知られれば、病気持ちの女と結婚してくれないかもしれないと、怯えていたから秘密にしていたんだよ』

 そう教えてくれたのは彼女の親友だった。オスカーは葬式でその事実を親友に伝えられた時に「なんで」という思いがいつまでも頭にこだました。

『なんで、なんで、なんで』

 そんなの、言ってくれれば、いくらだって。

 一緒に、治す方法を探したりとか、無駄に余っているお金をそれにつぎ込むとか、いくらだって、できたのに。

 妻が金目当てでオスカーと結婚したわけではないことは明らかだった。彼女と出会ったのは彼が脚本家として大成する前であったし、出会いの場も彼が良く利用する図書館で、図書司書だった彼女を見初めたのもオスカーの方だった。

――綺麗な人だと、思った。

――彼女が担当する新書のコーナーはいつも面白くて。

――本に恋をしながら、彼女にも恋をした。

「なんで」が数億回。頭の中でめぐっては消えた。

 妻の親友はできた人で、彼が妻の死で心を喪失している間、精力的に動いて彼と残された幼い娘の世話をしてくれた。放っておけば一日中食べることすらしなくなるオスカーに温かい食事を、髪の毛を編んでくれた母の不在を泣いてなげく娘に三つ編みを。

 もしかしたら、少しの横恋慕よこれんぼがあったのかもしれない。ある時、熱を出して寝込み、突然おうを繰り返すようになった娘を病院に連れて行ったのも彼女だった。

 娘が妻と同じ病を持っていると知らされたのは、実の父親よりも親友が先だった。

 後の物事はゆっくりと、しかしオスカーの目には早く進んだ。

 妻の二の舞にはさせまいとあらゆる高名な医師を頼った。大きな病院からまた大きな病院へ。様々な人に頭を下げ、頼み、情報を集めては新薬を試した。

 薬と副作用は切り離せない関係だ。娘は薬を飲む度に泣きわめく。愛する人が苦しむ姿から目をそらすことが出来ない看護の日々は近しい者の心を蝕む。

 どれだけ新しい薬を試しても娘の病状は良くならなかった。やがて頼るところすら尽きて、医者にも見放され、治す手立てがないと途方にくれる。

 妻が寂しさで黄泉よみに手招きをしているのではと、後で思い返せば馬鹿らしいことを何度も考えた。連れて行かないでくれと、墓に向かって懇願こんがんしても死者が語る口は無い。

 精神的に追い込まれていたオスカーだったが、それまで病院に通ってくれていた妻の親友の方が心折れるのが早かった。不安定な娘を見守ることに疲れ果て、いつしか病院から足も遠のき、やがてオスカーと娘は本当に二人きりになった。娘は薬漬けの生活のせいでかつては白いミルクに浮かんだ薔薇の花弁のようだった頬も黄色くにごって醜くやせ衰えた。

 甘い匂いがした蜂蜜色の髪も、どんどん抜け落ちていく。

 見るに、耐えない。本当に見るに耐えない姿だった。

 最終的にオスカーは医者との不毛な押し問答を繰り返した末、娘に鎮静剤の投与だけすることにした。彼女の、ただでさえ短い人生を苦痛だけで埋めてしまいたくなかったのだ。

 それからは少しの平和。優しい日々。久しぶりに見る娘の笑顔。

 後残りわずかの幸せな毎日が続いた。

 彼女が死んだ日はとても天気が良かった。

 世界の色を刻々と失わせていく秋。空は快晴。病院の窓からも赤や黄色に染まった木々が見えた。病院の敷地内には憩いの場として設けられた噴水がり、その水面には落ち葉が浮かび、静かに漂っていた。

 落ちては、漂い、水に浮遊し、磁石に引き寄せられるように集まる落ち葉たち。その生命を失っても尚美しい残骸ざんがい

 娘はそれを見て「きれい」と言った。

「水の青と、落ち葉の色が混ざってとてもきれい。ねえ、あの落ち葉の上なら落ちずに噴水を歩けるかなあ」

 子どもらしい発想。実際は重力と体重に負けて体はすぐに水の中へ沈むだろう。オスカーはそれを否定することはせず。

「傘を持って、風を利用すれば更に可能かもね」

 と冗談めかして答えた。もう助からない子どもを少しでも甘やかしたかった。

 娘はそれを聞いて、瞳を輝かせて笑った。

「いつか見せてあげるね」

 

 私たちのあの家の、湖で。

 秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。

 いつか。

 いつか見せてあげる。

 

 娘はその後、こほんこほんとせきを何回かした後に、突然死んだ。

 まだ九歳だった。

 死んだむくろは抱き上げると軽くて。魂一個分無いにしろ、あまりにも軽すぎて。

 本当に生きてくれていたのだろうか、自分は長い夢でも見ていたんだじゃないだろうかと、オスカーは涙した。

 彼は娘を妻と同じ墓地にほうむり、それから三人の家だった場所に戻って人生を沈黙させた。

 オスカーには何もせずに生きられる程の経済力があったし、彼の書いた脚本はあらゆる場所で使われ、その度に彼のもとに金が振り込まれていく給与体制だったので貯金が底を尽きかけて餓死がしすることもなかった。妻と娘のに服した数年後、オスカーはかつての仕事仲間の男からまた脚本を書かないかと持ちかけられる。

 それは演劇をする者なら誰しも憧れるトップ演劇集団からの依頼であり、もはや業界から名前だけ残して存在が消えようとしていたオスカーにとって名誉ある仕事だった。

 ただ怠惰たいだに、自堕落じだらくに、悲しみにふける毎日。

 人間は飽きる生き物で、悲しむことも、嬉しがることも、ずっとは続けられない。

 そういう風に、出来ている。

 オスカーは二つ返事でそれを承諾し、もう一度筆を持つことを決めた。

 しかし、困ったのはそれからだった。

 オスカーは辛い現実から逃れるためにかなりの酒飲みになっていた。吸えば幸福な夢を見る薬も少々。酒と薬はなんとか医者のおかげで克服することが出来たが手の震えが残った。

 紙に書くにしろ、タイプするにしろ、これではうまく執筆が進まない。

 書きたいことだけは、胸にちゃんとあった。

 あとはそれを言葉にするだけ。

 執筆の依頼をもちかけた仕事仲間に相談すると、「良い物がある」と教えてくれた。

自動手記人形オート・メモリーズ・ドールを使えばいい」

「なんだい、それは」

「君の世間知らず……というか世俗離れは心配になるレベルだな。有名だぞ。今は割りと安価で借り出し出来るんだ。そうだな、試しにそちらに派遣してやろう」

「人形……が手伝ってくれるのかい?」

「スペシャルな奴がね」

 オスカーは名前だけ耳にしたことのある道具を使うことにした。

 それが『自動手記人形オート・メモリーズ・ドール』。彼と彼女の出会いはここから始まる。

 

 女が山道を登っていた。

 やわらかな編みこみがされた髪型はダークレッドのリボンで飾られ、細い体はスノーホワイトのリボンタイワンピース・ドレスに包まれている。

 シルクのプリーツが入ったスカートは歩くごとに清楚に揺れ、胸元につけられたエメラルドのブローチがきらめき輝く。

 ドレスの上に着込んだジャケットは白を引き締めるプルシアンブルー。

 使い込まれて深い色合いを出している革のロングブーツはココアブラウン。手には重たそうなトロリーバックを持ち、オスカーの家の白いアーチをくぐって進む。

 ちょうど女が家の庭に足を踏み入れた所で一陣の秋風がごおと音を立てて吹いた。

 赤、黄、茶の朽ちた葉が踊るように浮遊し女の周りを旋回する。

 紅葉の残骸が目の前にとばりを降ろしたせいか、見失う視界。女は胸につけていたブローチを一度手でぎゅっと握りしめる。小さく何か呟いたが、それは枯葉かれはのざわめきよりも大人しい声だったので響くことは無く誰にも聞かれず空気に溶けた。

 悪戯いたずらな風が止むと女は先程の危うげな雰囲気をどこかに置き忘れ、特に迷う様子もなく、玄関にたどり着くと家のブザーを黒手袋で包まれた指で押した。

 地獄の叫びのようなきしんだブザー音が鳴り響き、しばらくすると扉が開かれた。家の持ち主である赤毛の男、オスカーが顔を出す。寝起きだったのか寝ていないのか、どちらにしても客人を迎えるにはだらしない服装と顔立ちをした彼。オスカーは女を見ると、少し驚いた表情をした。彼女があまりにも、風変わりな格好をしていたからか。

 それともあまりにも美しかったからか。どちにせよ、一瞬息をんだ。

「……君が、自動手記人形オート・メモリーズ・ドール?」

「そうです。お客様がお望みならどこでも駆けつけます。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールサービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです」

 物語から飛び出てきたような美しさの金髪碧眼へきがんの女は、愛想笑いを浮かべることもなく玲瓏れいろうな声で言った。

 

 ヴァイオレット・エヴァーガーデンという女はまさに人形の如く美しく静かなたたずまいをしていた。金糸の睫毛まつげに覆われた青い瞳は海の底の輝き、乳白色の肌に浮かぶ桜色の頬、あでやかにルージュがひかれた唇。

 どこをとっても欠けることのない、満月のような美を持つ女。

 瞬きさえしなければ、ただの鑑賞物になるだろう。

 オスカーは自動手記人形オート・メモリーズ・ドールについては全く詳しくなく、仕事の依頼をしてきた友人に頼んで彼女を手配してもらった。

「数日で届くから」と言われて待ったあげく訪れた彼女。

――てっきり、郵送屋が小包で小さな機械の人形を運んでくれるのかと思ったのに。

 まさかこれほどまでに人間に似せた機械人形(アンドロイド)のことだったとは。

――文明は僕が引きこもっている間にどれだけ進化したのか。

 オスカーは世俗全般にうといタチだった。新聞も雑誌も読まず、人付き合いも少ない。気にかけてくれる友がいなければ会う相手は食料品店から配達をしてくれる配達員に限られるだろう。

 もっとちゃんと調べてから手配を頼めばよかったと早くも後悔する。

 この三人の家に、自分以外の人間……に似た者がいることにひどい違和感と、何だか後味の悪いものを覚える。

――家族に悪いことをしているような気分だ。

 ヴァイオレットはそんなオスカーの考えも露知らず、案内されたリビングの長椅子に腰掛けている。紅茶を薦めたら、きちんと飲んだので最近の機械人形はかなり発達しているらしい。

「飲んだ紅茶はどうなるんだい?」

 疑問に感じて聞いたら、ヴァイオレットは首を少し傾げながら、

「いずれは体内から排出されて、大地に還りますが?」

 と答えた。機械人形らしい答えだ。

「正直……僕は戸惑っている。その、想像と……ちょっと違ったから」

 ヴァイオレットは自分の身なりをちらりと確認し、共に椅子に座ろうともせず立ってこちらをながめるオスカーを見つめ返す。

「何かご希望に添えぬ点がありましたか?」

「いや、希望というか……」

「旦那様がお待ち頂けるようでしたら。私ではない弊社の別のドールを手配させて頂きます」

「いや……僕が言いたいのはそうじゃなくて……いや、まあいいか……。仕事が出来ればそれでいいんだ。君はうるさくなさそうだし」

「命じられればなるべく呼吸も浅くいたします」

「そこまでは……しなくていいよ」

「私は旦那様に代筆を求められてここに来ました。ご満足頂けるよう自動手記人形オート・メモリーズ・ドールの名に恥じぬ働きを致します。使う道具はペンと紙でもタイプライターでも構いません。どうぞ、計画的にご利用ください」

 大きな宝石のような碧眼にじっと見つめられながら言われて、オスカーは少々どきどきしながらも「うん」と頷いた。

 彼女の貸し出し期間は二週間。その間に、一つの話を完成させなければいけない。

 オスカーは気持ちを入れ替えて、彼女を書斎へ案内し早速作業を始めた。

 とは言ったものの、まずヴァイオレットがすることは代筆ではなく彼の書斎の片づけになってしまった。

 書斎と寝室を兼ねたオスカーの部屋は脱いだ服や食べかけの飯がこびりついた鍋が床に直置きしてある惨状だった。要するに、足の踏み場がない。

 ヴァイオレットは無言で彼を青の瞳で見た。

『呼んでおいてこの有り様はなんだ』と目が言っている。

「……ごめんなさい」

 仕事をする人間の部屋ではないのは確かだ。一人になってからはほとんどリビングは使用していなかったので綺麗だったが、頻繁ひんぱんに出入りする部屋、洗面所や台所、風呂場はどこも見るも無残な状況に陥っていた。

 ヴァイオレットが機械人形で良かったとオスカーは思った。

 彼女の身体年齢は見たところ十代後半から二十代前半くらいだが、そんな若い娘にこんな恥ずかしいところを見せたくはない。老いてきてはいても、男として情けない。

「旦那様、私は代筆屋であってメイドではないのですよ」

 とは言いつつも彼女は持ってきた鞄の中から白いフリルエプロンを取り出し、意欲的に片づけをしてくれた。一日目はそれで終わってしまった。

 二日目からなんとか二人共書斎に腰を据えて仕事を始めた。

 オスカーは寝台に寝転がり、ヴァイオレットは椅子に座り、机の上のタイプライターに手を置く。

「彼女は……言った」

 オスカーが喋りだすと恐ろしいほど速いブラインドタッチで文字を静かに打ち出した。

 それに目を剥いて彼が驚く。

「……すごく、早いね」

 賛辞を送ると、ヴァイオレットは服のそでをまくり黒手袋を脱いで、片方の腕を見せた。機械の腕だ。指先は他の部分より硬質で機械的な作りになっている。指と指の関節の塗装も甘い。

「実用性を兼ねたブランドを使用しています。これはエスターク社製なのですが耐久レベルも高く、人体には成し得ない動きや力を出すことも可能で、大変な優れものです。旦那様のお言葉を漏れなく書き記します」

「そうなの……あ、って今の言葉は書かなくていいから。脚本の言葉だけでいいから」

 オスカーは喋り続ける。途中、何度も休憩したが初日としてはうまくいった。

 もともと話の構想は自分の中にあったのだ。あまり文章に詰まることはなかった。

 ヴァイオレットは話の聞き手、代筆屋としてはとても良い相手だと喋りながらオスカーは気づいた。彼女は最初から物静かな印象であるし、仕事に入るとそれが如実にょじつに現れる。命じたわけでもないのに、本当に呼吸の音も聞こえない。聞こえるのはただカチカチとなるタイプ音だけ。目をつむれば、タイプライターを自分が打っているような気にすらなる。どこまで書いたか、読みあげてもらうにしても声が涼やかで朗読も上手いから聞いていて楽しい。

 彼女が語れば、どんな文章も荘厳そうごんな物語みたいだ。

――なるほど、これは確かに普及するわけだ。

 オスカーはしみじみと自動手記人形オート・メモリーズ・ドールの良さを知ることが出来た。

 しかし順調なのも三日目までで、四日目以降は書けない日が続いた。物書きにはよくあることだ。書く内容は決まっていても、うまく言葉がつむげない時がある。

 オスカーは自分が書けない時の対処法を長年の経験からもう分かっていた。

 それは書かないこと。無理に書いて出来たもので素晴らしいものなどひとつもないという法則が彼の中にはあった。

 ヴァイオレットには申し訳ないが待機をしてもらう形になる。

 手持ち無沙汰になった彼女は頼むと無表情で掃除や料理をしてくれた。元来、働き者な性質が搭載とうさいされているのだろう。誰かが作ったご飯、それも温かく湯気が出ている物を家で食べたのは久し振りだった。出前を頼んだり、外食をしたりはしたが、素人が手間暇かけて作った料理とそれらは違う。

 とろりと卵が口の中でけるオムライス。東洋のレシピだという豆腐のハンバーグ。色彩豊かな野菜達をピリ辛のソースでライスと共に炒めた極上のピラフ。山々に囲まれた土地では摂取しにくい魚介類が入ったグラタン。副菜もサラダやスープなど何かしら毎回ついてくる。それに対する、ちょっとした感動。

 オスカーが食べる時、彼女はそれを眺めているだけで物を口にしない。

 食事を勧めても、「後で一人で食べますから」と言って譲らない。液体を飲めることは確認したが、もしかしたら固形物は食べられないのかもしれない。だとしたら、彼女は自分の知らないところで油でも飲んでいるのだろうか。

 想像すると、シュールな図が頭に浮かんだ。

――一緒に、食べてくれればいいのに。

 思うだけで、口には出さないがそう願ってしまう。

 妻とはまったく違うが、どこか似ているような気がする料理をする彼女の後姿。見つめているとなぜだか、無性に切なさがこみ上げてきて目頭が熱くなる。こうして他者を生活の中に入れたことでとても良くわかってしまった。

――僕がいま、とても寂しい生活をしているっていうこと。

 おつかいから帰ってきたヴァイオレットを玄関で迎える時の高揚感。

 夜、眠る時に感じる、いま自分は独りではないという安心。

 何もしていなくても、目を開けばそこに彼女がいるという事実。

 それらすべてが、オスカーに自分がいかに孤独な人間であるかを実感させた。

 金はあるし、生活に困ってもいない。だがそれが人生を潤してくれるかというと、これ以上心が荒れない防護策にしかならない。

 決定的に傷をいやしてはくれないのだ。

 気心がそれほど知れていない相手だとしても傍に誰かが、誰かがいて、同じように目覚めて起きてすぐ隣にいてくれるということ。

 それが、ずっと独りで心を閉ざしてきたオスカーの心に染みる。

 ヴァイオレットはオスカーの生活に現れた波紋だった。波風をたてない湖に訪れた小さな変化。投げ込まれたのは無機質な小石だったが、それが彼の無味な生活、風のない湖に変化をもたらした。良い変化か、悪い変化か。どちらかと言えばきっと良いほうなのだろう。

 少なくとも彼女がいることで感じる切なさで溢れた涙は、今まで流したものより温かだった。

 

 ヴァイオレットと過ごすところあと三日になって、ようやくオスカーは重い腰を上げた。

 煮詰まっていたのはとあるシーンのせいだった。

 オスカーがヴァイオレットに書かせていた物語は一人の少女の冒険奇譚きたん。家出をした少女が様々な土地で、色んな人々や出来事に遭遇し、成長していく。

 少女のモチーフは、彼の亡き娘だった。娘は最後に家出した家に戻ってくるのだ。

 そこには老いた父親が待っていて、彼女のあまりの成長ぶりに本人かどうかがわからない。悲しんだ娘は思い出してよ、と昔交わした約束を持ち出す。

 いつか湖の上の落ち葉を渡って見せてあげるよと話したことを。

「人間は水中を渡ることなどできませんよ」

「イメージが欲しいんだ。話の中では冒険の最中に加護を得た水の精霊に助けてもらうことにする」

「そうであっても……私などでは合わないでしょう。あの話の少女は快活で愛嬌があって無邪気です。私とは何もかもが違います」

 小説家と自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは押し問答をしていた。

 オスカーがヴァイオレットに主人公に模した格好をして、湖畔こはんで水遊びをしてくれないかと頼んだからだ。掃除、洗濯、と家事手伝いまでさせておいて、あげくにこの依頼。まるで何でも屋扱いだ。

 理性のある職業婦人然としていたヴァイオレットも「困った御方ですね」と呆れている。

「君の髪色、少し違うけれど娘と同じ金髪なんだ。髪をほどいて、ワンピースでも着ればきっと……」

「旦那様……私はあくまで代筆屋。自動手記人形オート・メモリーズ・ドールでございます。旦那様の妻でもめかけでもありません。代わりを務めることは出来ません」

「わ、わかってるそんなこと。君みたいな娘さんにそんな気起こさないよ。……君のさ……見た目が、……娘が生きていればきっと君くらいになってるって……思うと」

 頑なに拒絶していたヴァイオレットの無表情がそこで揺らいだ。

「……こだわりが強いとは思っていましたが、お嬢様は亡くなられていたのですか」

 ヴァイオレットは唇を小さく噛む。

 良心と葛藤しているような顔。

 この数日間でオスカーは彼女のことで分かったことがある。それは、ヴァイオレットが善と悪ならば善の側にいる存在だということだ。

「私は自動手記人形オート・メモリーズ・ドール……お客様が望むことは叶えて差し上げたい……けれどこれは職務規程に違反しているのでは……」

 ぶつぶつと自問自答するその様子にオスカーは申し訳ないと思いつつも更に一押しする。

「娘が大きくなって、帰ってきて、約束を果たしてくれる姿をイメージできれば、それですぐ書ける気がするんだ。本当だ。お礼ならいくらでもする。提示された料金の倍を払うよ。この話は僕にとってとても大切な話なんだ。書くことで、人生の節目にしたい。お願いだよ」

「しかし……私は……着せ替え人形では……」

「なら写真とかは撮らないから」

「撮るつもりだったんですか」

「僕の脳裏に焼きつけて、それで話を書く。お願いだ」

 ヴァイオレットはその後も渋い顔をして考えこんでいたが、結局はオスカーの熱意に根負けして承諾した。押されると、弱いタイプなのかもしれない。

 オスカーは、この時ばかりは引きこもり生活から脱し、自分から外に出てヴァイオレットの為に品の良い服と傘を買い求めた。

 服は白の総レースのトップスに切り返しでリボンベルトがついた青色のワンピース。傘は水色に白のストライプ、フリルがついたものを購入した。ヴァイオレットは傘が気に入った様子で渡すと開いては閉じ、開いては閉じてくるくると回していた。

「傘が珍しいのかい?」

「こんなに可愛らしい傘は初めて見ました」

「君は可愛らしい格好をしているじゃないか。趣味じゃないのか?」

「会社の上役の方に薦められるがままに着ておりますので。自分で服屋等にはあまり行かないのです」

 母親に言われるがままに着飾る子どもみたいだ。

――もしかしたら、自分が思うより遥かに彼女は幼い年齢なのかもしれない。

 そうしていると、大人びた彼女も少しだけ少女じみて見えた。

 ヴァイオレットの気が変わらない内にと、オスカーは買い物を終えるとすぐに彼女に着替えをお願いした。

 昼下がりの午後、外は少し曇り。雨が降る様子はないが、雰囲気はある。

 秋の到来を感じさせる冷ややかな風はまだ肌を突き刺す寒さでは無い。

 オスカーは先に外で待つことにした。湖のすぐ傍に木椅子を置いてパイプをふかす。

 彼女が来てから何となく気を遣ってしばらく吸っていなかったから、腹に煙が染み込んでいく感覚が行き渡る。ぷかりぷかりと煙の楕円だえんを宙に浮かせて数分。ガタツキが悪くなってキイと音を立てる玄関の扉が開いた。

「お待たせいたしました」

 凜とした声に首だけねじって振り返る。

「待って……」

 などいないよと言おうとしたが、少し息が止まってしまい言葉は出なかった。

 はっと飲み込んだ吐息。まるでヴァイオレットを初めて見た時のようにオスカーはほうけた。

 髪の毛をほどいた彼女はあまりにも魅力的で、見る者の時間を奪う美しさだった。

 編み込んでいた髪が緩やかに広がり描くなめらかな曲線。想像していたよりかなり長い。

 そして、何より。

――もし、あのまま娘が成長したら、こんな風に。

 着飾ってお澄ましした姿を見せてくれたんだろうか。などと考えて、胸からぐっと熱いものが込みあげてきた。

「旦那様、頂いたし物を着た感じはいかがでしょうか?」

 秋の色彩の世界に現れた、人間離れした美貌びぼうの少女はスカートの裾を持ってくるりとその場で回ってみせる。

「このまま、あの湖を渡る姿をお見せすればよろしいのですね。……え、けれど旦那様はそれが本当に書きたい情景なのではないのですか? こんな格好でただ歩きまわるよりは、数秒でも湖を駆ける姿をお見せしたほうがいいでしょう。旦那様、お任せ下さい。運動は得意なので、少しばかりならご期待に沿うことができます」

 色んな感情に支配されて『ああ』や『うう』としか答えられないオスカーを気にせずヴァイオレットはいつも通り無表情で淡々と語りかける。

 そこにいるのは娘とは違う少女。同じ金糸の髪を持っていても、瞳に甘い輝きは無い。

 ヴァイオレットは閉じたままの傘を片手でしっかりと握りながら肩に乗せた。湖まで広く距離をとって吟味ぎんみするように水面を見つめる。

 秋の彩りは枯れ落ちて、その枯れ葉が水面に浮かんでいる。風は止んでは吹き、止んでは吹きと不安定だ。舌先で機械の指を舐めて風の向きを確認する彼女をオスカーが心配そうに見守る。じゃりっと地面を強く踏んでからヴァイオレットはオスカーを見て薄く微笑ほほえんだ。

「ご心配なく。すべて、旦那様のお望みのままに」

 玲瓏とした声音でそう言い放ってから、ヴァイオレットは大きな一歩を踏み出した。

 助走距離はかなりあったが一瞬で彼女はオスカーの目の前を過ぎ去っていく。その速さたるやまさに風が如く。俊足の自動手記人形オート・メモリーズ・ドールは湖に足を入れ込む一歩手前で大きく大地を蹴った。

 土がえぐれるほどの衝撃。強靭な脚力は驚くほどの高さの跳躍ちょうやくを可能にさせた。

 天国の階段を登ってしまいそうな、そんな飛び方。オスカーは常人離れしたその行動にあんぐりと口を開ける。そこからは全てスローモーションで見えた。

 臨界点まで跳躍したヴァイオレットは傘を持っていた片手を大きくかかげ、ばっとそれを開く。まるで花でも咲いたようだ。フリルの傘がゆらりと美しく揺れ、タイミングを見計らったように風が彼女の足元をさらった。

 スカートと傘がふんわりと空気に膨らみ、白のペチコートがひらひらと覗く。自前の編み上げブーツがそっと水面の落ち葉を踏んだ。

 その瞬間。

 その一瞬。

 その一枚絵。

 写真を撮ったように鮮明な映像がオスカーの目に焼きついた。

 傘を浮かせ、スカートをなびかせ、湖の水面みなもを踏む少女。

 さながら、それは魔法使い。

 心音をきざむことを止めてしまったあの日の娘の言葉が思い出される。

 

『いつか』

 

 いつか見せてあげるね

 私たちのあの家の、湖で。

 秋に落ち葉が水面をたゆたう頃。

 

『いつか』

 

 いつか見せてあげるよ。

 

『お父さん』

 

 声が。

 もう、忘れてしまっていたあの娘の声が脳裏に響いた。

 君は知らないだろう。あと何千回だって僕は君に呼ばれたかったんだよ。

 

『いつか、見せてあげるね』

 

 お父さん、と。

 舌っ足らずな甘い声で。

 

『いつか見せてあげる、お父さん』

 

 どんな音楽よりも君の声は心地良かったんだ。

 

『いつか見せてあげる』

――嗚呼ああ、そうだったね。

 君はそんな、声で。

 無邪気に、僕を楽しませようと。

 言ってくれたね。

 約束してくれた。忘れていた。忘れていたよ。

 随分、久しく、君を思い出せなかったから会えて嬉しい。

 まぼろしでも、会えて嬉しいよ。

 僕の可愛い、お嬢さん。

 僕の、僕の。

――僕のたった一人の、あの人との宝物。

 叶わないってきっと、知っていたのに。約束してくれた。

 その約束が、君の死が。僕をここまで駄目にして、同時に生かして。

 ここまで、命を引き伸ばした。

 君の面影を探し続けてだらだらと生きたこと。後悔していたけれど。

 この一瞬。君ではないけれど、僕には君に見えた彼女の一瞬。

 一瞬の、邂逅かいこう、再会、抱擁ほうよう

 この一瞬が見たくて、まだ生きていたのかもしれない。

 名前すら悲しくてささやけない君。ずっと、会いたかった。もう一度、可愛い君に。

 僕に残されてた最後の家族に。ずっと。ずっと。

ずっと会いたかったよ。

――愛してた。

 嬉しくて、微笑みたいのに。

「……ふ……う……う」

 嗚咽おえつしか、でない。

 涙は凍って停止していたオスカーの時を動かし始めるように、流れ落ちる。

「……ああ……もう……」

 時計の針がちくたくと動くのが聞こえる。冷たかった心臓が、どくんどくんと音をたてる。

「……本当に、本当に……」

 顔を手で覆うが、自分の手が嫌にしわが増えていることに気づいた。自分はどれだけ、二人がいなくなったあの頃から時を止めていたのか。

「死なないで、ほしかった、なぁ……」

 涙まじりの声で、顔をくしゃくしゃにゆがませて囁く。

「生きて、生きて、大きく、育って……」

 美しくなった姿を見せて欲しかった。

 そんな君が見たかった。そんな君を見届けて僕が先に死にたかった。

 君より先に。

 君に取られて。

 そうやって死にたかった。

 僕が君を、看取るんじゃ、なくて。

 そうじゃなくて。

「会いたいよ……っ」

 オスカーの瞳から涙が溢れては頬を流れ、地面にしたたり落ちる。

 ざぼんとヴァイオレットが湖に沈む音が涙まみれの世界に響いた。

 一瞬のきらめきは失われて、思い出した娘の声もすぐにまた忘れた。

 笑顔のまぼろしもシャボン玉みたいに消える。

 オスカーは手のひらに覆われた視界を、目を閉じることで更に拒絶した。彼女が失われた世界を遮断しゃだんする。

――嗚呼、いま死んでしまえたらいいのに。

 どれだけ長い時間悲しんでいても、彼女達は戻らない。

――心臓よ、息よ、止まってしまえ。

 妻と娘が死んでから、僕も死んでいたと同じなのだ。

 ならばいま。今この瞬間。弾丸に撃ちぬかれて死にたい。

――花みたいに、花弁を落としても尚生きられない。

 けれども、そんな願いは数億回祈ったって叶わないのだ。

 数億回祈った後の彼はそれを知っている。

――死なせて死なせて死なせて、一人になるくらいなら一緒に死なせて。

 祈るだけで叶うことなんて、何一つ無かった。無かったけれど。

「旦那様っ」

 遮断した世界の向こうで、いま自分と同じ時を刻んでいる者の声が聞こえる。

 息を切らして、こちらにやって来る。

――僕は、生きているんだ。

 まだ生きている。そして、生きて、今は亡き愛する人を何かの形で残そうと、足掻あがいてる。

 祈ることで叶う夢などないけれど、オスカーは陽光も届かない暗闇の視界でやはり祈る。

「……神様、どうか」

 いま死んでしまえぬのならどうか、せめて物語の中だけでもあの娘が幸せでありますように。

 それをあの娘が喜んでくれていますように。そして僕の傍に。

 傍に、永遠にいてくれますように。物語の中だけでも。空想の娘だとしても。

――傍にいてくれますように。

そう、願わずにはいられなかった。

 

 だって自分の命は続いていくのだから。

 

 年甲斐もなくぼろぼろと泣いているオスカーの前に、ずぶ濡れになって湖からはい出たヴァイオレットがやってきた。滴る水滴。めかしこんだ服装も台無しだ。

 しかし本人は今までで一番楽しそうな、笑顏と言っていいものを浮かべていた。

「ご覧になられましたか? 三歩は歩いていたでしょう」

 涙で見えなくなってしまったんだよ、とは言えず。

 オスカーは鼻水をすすりあげながら「うん」と答えた。

「うん、見たよ。ありがとうヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 心から敬意と感謝を込めて、そう言った。

 叶えてくれてありがとう、ありがとう。本当に奇跡みたいだった。

 神様なんていないと思っているけれど、いるなら君のことだろうと返したら。

 ヴァイオレットは「私は自動手記人形オート・メモリーズ・ドールですよ、旦那様」と。

 神の存在を否定も肯定せずにただそう答えた。

 

 その後、すっかりずぶ濡れになってしまった彼女のためにオスカーは風呂を沸かしてやった。

 食事の姿は見せない。だが浴室は毎日使い、恐らくは与えた寝室で身体を休めている。

 随分とまあ、人間じみた機械人形だ。

――ほんと、最近の文明はすごい。科学の発達はめざましいな。

 機械の女の子でも濡れた服を着せておくわけにはいかない。着替えが必要だろうと、比較的綺麗なはずの自分のバスローブをとりあえず持って浴室に向かう。他人が風呂場にいることなどしばらくなかったものだから、失念してノックもせずに入ったら、まだ着替えてもいない彼女を見てしまった。

「あ、ごめ……ん…………えっ?」

 あまりのことに息を呑む。

「…………えええっ!?

 オスカーの瞳に映るのはどんな裸婦らふ像よりも美しくなまめかしい裸の女。

 金糸の髪を滴るしずく。絵の具でも表しきれない美しい青の瞳。

 その下に続く形の良い唇。華奢きゃしゃな首、浮き出た鎖骨、ふくよかな胸、女性らしい曲線を描いた体。両肩から指先に至るまで取ってつけたように体の一部になっている義手。

 しかしそれ以外は。

 傷が多いが、明らかに腕以外は生身の素肌。

 柔らかそうな体のふくらみのいずれも、彼女が機械人形などではなく人間だということを物語っていた。今まで信じていたことが覆された衝撃で目は何度も裸を確認してしまう。

「……旦那様」

 驚き過ぎてその場で固まり注視し続けるオスカーにヴァイオレットはとがめるような声をかける。そこでようやく、すべての過ちにオスカーは気づいた。

「うああああああっ! うあああああっ! うあああああっああああ!」

 悲鳴を上げたのはオスカーの方だったというのがこの話のオチでもある。

 散々叫んだ後に、真っ赤な顔で半泣きになりながら君は人間なのかいと尋ねたオスカー。

 ヴァイオレットはタオルを巻きつけながら答えた。

「旦那様は、本当に、困った御方ですね」

 少し顔をうつむきながら囁いた彼女の頬は、ほんのりと薔薇色に染まっていた。

 

『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』。

 その名が騒がれたのはもう随分前のこと。

 製作者は機械人形の権威であるオーランド博士。彼の妻であるモリーが小説家で、後天的に視力を失ったことがそもそもの始まりである。盲目の女になったモリーは自分の人生の意味ともしてきた創作が出来なくなったことにひどく落胆し、日に日に衰弱していった。

 それを見かねてオーランド博士が作ったのが自動手記人形オート・メモリーズ・ドール。人の肉声の言葉を書き記すという、いわゆる「代筆」をこなしてくれる機械だ。

 その後のモリーの著作は世界的に有名な文学賞を受賞したこともあり、オーランド博士の発明はまさに歴史に必要な流れであったと言われている。当初は愛する妻の為だけに作られたが、後に多くの人々の支えとなり普及した。

 今現在では自動手記人形オート・メモリーズ・ドールを安価で貸し出し、提供する機関も出来ている。

 それにつけ加えてもうひとつ。

 自動手記人形オート・メモリーズ・ドールのように代筆屋をこなす者のことも、今では同じ呼び名で親しまれている。

『自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)』と。

 オスカーはヴァイオレットが去った後に友人から聞いたのだが、彼女は代筆屋業界では有名な人らしい。その人物を機械人形だと勘違いしていたと話した時には大笑いされた末に「君は本当に世間知らずだな」と呆れられた。

 あんな美人な機械がいてたまるか、と。

「だって機械人形だなんて言うから」

「人類の機械文明はそこまで到達しちゃいないよ。ただ本当に機械人形の方の奴もある。もっと可愛らしい奴だがね。でも、それじゃあ……引きこもりで人と関わらない君にはあまり良い薬にならないかと思って。彼女、無口だけれど人を良くする力がある。良かっただろ」

「……うん」

 無口だけれど、そう、とても、良い娘だった。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデンには敵わないが、当分の執筆の手助けの為に人間じゃないほうの代筆屋を今度こそ贈ってやるよ」

 やがて湖畔こはんの家に届けられた小包。それはヴァイオレット・エヴァーガーデンとはまったく異なる小さな人形だった。

 愛らしいドレスを着て、机の上にちょこんと座り、あらゆる肉声を記録し文書化してくれるタイプライターの機械人形。なるほど、確かにこれは優れものだ。

「でも、彼女には敵わないな」

 もういなくなってしまった、彼女の面影を部屋に見ながらオスカーは苦笑した。

 寂しいよ、と言ったら。きっと彼女はこう言ってくれるだろう。

「旦那様は、困った御方ですね」と。

 玲瓏とした、声で。

 無表情に唇だけ少し微笑ませながら。

 傍にいなくても、その声が聞こえる気がした。