時間
Ⅰ.
1
大荷物に苛まれながら、大学までの道を急ぐ。
走ってズレた眼鏡を直す。背中にリュック、両手にエコバッグ、中身は資料の本やら紙束で馬鹿みたいに重い。あと石が入っている。なぜ僕は石を背負って走っているんだろう。エジプトのピラミッド造りに従事する労働者のような気分だった。
駅から大学までの道のりは直線で二〇〇メートルしかない。ただし大学正門から職場の研究室までが一キロあって何かが歪んでいるような気がしてならなかった。時空か建築計画のどちらかだろうと思う。
僕の勤務先である央都大学は、東京の隅っこにキャンパスを構える都立の総合大学だ。多摩の山林を存分に活かした広大な敷地には文系理系合わせて二五の学科と九〇〇〇人の学生が詰め込まれている。構内の端から端まで徒歩一五分。講義の間の休み時間が一〇分しかないのを考えると設計に根本的な欠陥があるのは明らかだった。そんな大学側の不始末をフォローするために学生達はみんな自転車か車で移動している。僕もできることなら文明の利器で石を運びたかったが、研究室に一台しかない車は教授から順番に使うので助教程度の僕はもっぱら人力になる。丸太を下に噛ませる古代方式で運ぶべきかと迷ったが、丸太がなかったので諦めて研究室へと急いだ。
2
「戻り、ましたあ」
息も絶え絶えに部屋へ入ると数人の学生が「おかえりなさーい」と応えた。パーテーションで区切られた自分の机に向かい、ようやく重りをどさどさと下ろす。石が入ったリュックだけは丁重に扱った。借り物なので壊したら事だ。
顔を上げて壁の時計を確認する。一六時前。まずい、もう時間がない。
「有馬君」
呼ばれて振り返ると、教授室から万亀先生が出てくるところだった。今日は先生もフィールドワークに出ていたはずだけれど、御年七〇の御尊顔は疲れた様子もない。多分車輪の力だと思う。
「どうだった?」
「バッチリです」
僕は勢い込んでリュックを開けた。中から新聞紙の塊を取り出し、そのままバリバリと剥いていく。緩衝材がなかったので何重にも包んできた。
最後の一枚を剥ぎ取ると、漬物石ほどの大きさの自然石が顔を出す。
「実物を貸していただきました! 藤原さんちの御神体!」
僕は胸を張って鼻息を噴いた。今日のフィールドワークで最大の成果物、奥多摩にお住まいの藤原さん宅を守護していた《屋敷神》の御神体だ。
「すごいじゃない有馬君ー」
万亀先生も目を輝かせて石を眺めた。
僕はここ央都大学・文化人類学研究室に助教として勤めながら、文化人類学の研究をしている。
文化人類学などと言っても一般の方は何をやっているのかさっぱりわからないだろうし、僕も大学に入るまではさっぱり知らなかったけれど。要は人間の文化を研究して人間を理解していこうという分野になる。
ただこの《文化》というのがあんまりにも広大無辺であるので研究の内容は多岐に渡り、研究者によっては全然違うことをやっていたりする。代表的なものだけでも歴史・言語・衣食住・社会制度・音楽・教育エトセトラエトセトラ……。でもそれこそがまさに人間の多様性そのものでもあるので、やっぱりこの分野はとても面白いと思う。
そんな中で僕が専攻しているのがいわゆる《民俗学》で、中でも地域の信仰や祭り、神話や民話などを主に研究している。歴史ある大きな祭事を調べることもあれば、一つの家系にのみ細々と伝わる伝承を追ったりもする。今日借りられた藤原さん宅の御神体などは後者になる。
「いやしかし、神々しいね」
万亀先生が頷きながら石を眺める。
「まったくです」
僕も同意して眼鏡を上げた。藤原さんの家系を室町時代から守護しているという歴史深い神様は、眼鏡のレンズ越しでも堂々たる威厳を感じざるを得ない。
「元々はただの石ころでも、人の想いを長年受け続けるとなんというかこう、宿るものがあるんだろうねえ」
「人の魂、その神性の顕現ですかね……」
携帯の着信音が鳴った。藤原さんからだった。電話を取って今日の御礼を言う。要件を聞いて電話を切った。
「先生」
「なに?」
「今思い出したそうなんですが前の御神体は去年落として割れたらしく、それはおばあちゃんが代わりに置いといた漬物石だそうです」
「そっか」
万亀先生は窓の外を見つめた。
「これが文化人類学の面白いところだよね……」
違うと思った。着信が鳴った。
画面には《マチ》の文字と一六時五分が表示されている。
「帰りますッ! あ! 神様ッ!」
僕は就任一年目の御神体を大慌てで包み直し、着替えの入った紙袋を持って教室を走り出た。後ろで万亀先生の声がフェードアウトみたいに遠ざかっていった。
「真千子ちゃんによろしくねぇ~…………」
3
私鉄京王線の車窓を夕暮れの町並みが流れていく。
窓外を反対方向の列車が通過した。下り方面は帰宅の乗客が詰まっていたが、僕達が乗っている上りは座れるくらいだった。
隣ではマチが僕のスーツの袖を親指と人差し指でつまんでいる。
「汚いものみたいに持たないでよ……」
「だって覚さん……もうちょっと……」
自分の服を見返す。三年ぶり二度目に袖を通したスーツは、しまい方が悪かったせいかヨレヨレだった。ヨレヨレだったなどと言っているけれど、実のところ本当にヨレヨレなのか自分で判断できてるわけじゃない。マチの反応を見るに多分この服は駄目なんだろうなあと当て推量しているだけだ。僕はそれくらい服に頓着がなかった。
「カビ臭いし」
マチがスンスンと鼻を鳴らした。眼鏡に夕日が反射してキラリと光る。アニメとかに出てくる厳しい委員長みたいだと思った。
「ごめんてば……。けどマチだって格好のことは言えなくない? いつもとおんなじシャツとスカート……」
「私はいいの。家族だもん」
ずるいなぁと思う。僕だって着飾ったマチが見たかった。けどこればかりは互いの立場上しょうがない。
終点の新宿でJRに乗り換えた。中央線と総武線を乗り継いで一路千葉を目指す。東京を西から東へ横断する一時間半の大旅行だ。目指すは船橋。マチの生まれ育った所。
メールの着信音がした。マチがスマホを取り出す。
「お父さん、駅に着いたって」
僕は漫画みたいに唾を飲み込んだ。
今日、僕は初めて彼女のお父さんに会う。
それが意味するところは、まぁそれしかないのだけど。解っていたつもりで今さら緊張してくる。服がヨレヨレだなんて出かける前に言ってほしかった。そうしたら代わりのスーツを用意する時間くらい、無かったな……。直前まで石運んでたしな……。漬物石を背負わせてくれた藤原さんちのお婆ちゃんが恨めしかったが、いつも良くしてくれるし筍ご飯も御馳走になったので恨み切れなかった。預かった石は丁重にお返しせねばと思う。今度は車を使える日に行こう、万亀先生の次の出張はいつだったか、などと考えていたらマチに袖を引かれた。気付けばもう船橋駅に着いていた。ああ。
何の心構えもできないまま、身体に棒が入ったみたいな動きで駅の階段を降りていく。待ち合わせ場所の中央改札口が近付いてきた。以前読んだゴルフ漫画に一瞬で心身の平静を整える技が載っていた気がするけど思い出す前に改札を抜けてしまった。もう駄目だった。
「お父さんは…………あ、いた」
僕は泣きそうな顔でマチが指さす先を見つめた。
四角い柱の傍らにいた男性がこちらに気付いて寄ってくる。ほとんど白髪の短髪で細い目をしたその人は、なんというか、自分の信用できない見立てでだけれど。
僕と同じくらい、ヨレヨレのスーツを着ていた。
マチが服の袖をつまむ。
「なんだい、真千子」
「お父さん……もうちょっと……」
それから僕とお父さんは、競争するようにペコペコと頭を下げあった。マチはその横で我慢しきれずに笑っていた。
4
「これはどうやって食べるのかねぇ……」
お皿が透けた刺し身を前にしてマチのお父さん、時任充則さんは苦悩していた。というか僕も苦悩していた。ふぐなんて食べたことがない。
創業九〇年の天然とらふぐ専門店『大林田』のお座敷で、僕らは強いお刺身と向き合っている。初めてのご挨拶の場と思って出来る限りの背伸びしてしまった結果、僕もお父さんも不要に追い詰められていた。マチは声を殺して笑っていた。
「笑ってないで助けてよ……」
「このお皿の真ん中のポン酢で食べればいいんじゃない?」
「透明で上手く掴めないな……」
「お父さん、それお皿の模様。あ、美味し」
マチは一人でふぐを堪能している。彼氏をお父さんに紹介するという場面なのにプレッシャーはないんだろうか。ふと顔を向けるとお父さんと目が合ってしまい、僕らはぎこちなく笑い合った。
マチのお父さんは実験や分析用のガラス器具を製造する会社に勤めていると聞いた。フラスコとかメスシリンダーくらいなら僕でも知っているけれど、専門的な器具になると文系の僕では馴染みが薄く、うまく話に乗れなくてなんだか申し訳ない気持ちになった。ここは理系のマチに頼りたいシーンだ。
「とは言っても、真千子も物理とか数学とかそっちの方だからねえ」
お父さんがビールのグラスを置いて言う。
「理化学用品なんて研究室で使わないだろ?」
「使わないけど。かっこいいとは思うよ」
「解るのか」
「まあ多少は……」
お父さんは微笑んで、グラスのビールをちびりと飲んだ。
「この子も勉強が好きなのはいいんだけどさ。まさか院まで行くとは思わなくてねえ」
お父さんが僕に向いて言う。マチは僕と同じ央都大の理工学研究科・宇宙物理研究室の博士課程に院生として在籍している。
「おかげで僕も定年間際まで働き詰めだ」
「それは申し訳ないと思ってるけど……」
「まぁそれも最後の一年さ。就職頑張りなさい」
「ええと……ポスドクかなぁって……」
お父さんの眉がハの字になった。実験機器の会社にお勤めなだけあって、その言葉の不穏さをご存知らしかった。
《ポスドク》はポストドクターの略称で、博士号取得者が期限付きで雇用される研究職のことだ。ただ期間雇用であるためどうしても不安定だし、給与もそこまで高くないので『高学歴ワーキングプア』などと揶揄されることもある。それを知っている親ならばあんな顔になるのも無理はない。
「大丈夫なのかい、食べていけるのかい」
「どうだろ……でももう少し勉強したいなぁって」
「真千子、聞きなさい」お父さんは思い詰めて言った。「宇宙はね、食べられないんだよ」
「お父さん知らないの? 最近の研究で宇宙の食べ方が少しずつ明らかになってきてるのよ?」
「なんだって、そうなのかい?」
「そうなの」
「じゃあ好きにしなさい……」
マチはにこりと笑い、お父さんは深い溜め息を吐いた。
仲の良さそうな親子だと思った。マチも普段より大分砕けているように見える。もう付き合って七年になるけれど、それでもまだ自分に対してはよそ行きの部分があるのかなと改めて感じる。
「それで、覚君は」
「あ、い、はい」
「社会学部、だったかな?」
「はいっ、文化人類学を専攻しております」
「うん。その文化人類学というのは…………いや、そのね、悪くは取らないでほしいんだけども、ちょっと気になっただけだから、あまりね、深く考えないで聞いてもらって構わないのだけどね…………ええと、それは…………………………………た……食べられるのかい?」
胃が縮まるのがわかった。多分質問したお父さんも胃が痛かっただろうと思う。そのような顔をしていらっしゃる。娘が連れてきた相手の収入は、父親ならば聞かざるを得ないのも当然のことで。
だからこそきちんと答えなければと必死で頭を回している間に、マチが口を開いた。
「覚さんね、春から助教なの」
それを聞いたお父さんの顔がパッと明るくなる。
「そうか。そうかい。それは良かったねえ」
お父さんの胃痛が消えていくのが手に取るようにわかった。
助教は大学教員の階級の一つで、教授・准教授・講師に次ぐ四番目、というか一番下っ端の役職である。
しかし下っ端と言っても大学の正規雇用であり、ポスドクと比べれば遥かに安定した立場であるのは間違いない。仕事で成果を上げていければ将来的には准教授、教授への道も開けている。研究で食べていくつもりならば助教は登山ルートの正しい入り口と言えるだろう。
それを知っているお父さんは、助教なら一安心という気持ちなんだろうと思う。僕も安心してもらえたこと自体はとても嬉しい。
けど、僕は。
「あの、お父さん」
これから家族になるんだという人に対して嘘を吐きたくなかった。
きちんと、本当のことを答えなきゃいけないと思った。
「うん?」
「僕は…………僕はまだ、助教なんて器じゃないんです」
「……それは?」
「僕が助教になれたのは研究室の教授の、万亀先生のおかげです」
顔を上げられないまま、お父さんの顔を見られないまま話す。
「本当は、僕の実績じゃあ助教なんて無理なんです。歳だってまだ二八で早過ぎるくらいですし、なら輝かしい研究成果があるかといえば、それも無いんです。僕の研究は学部生の頃からずっと続けているものですが、形になるにはまだ調べが足りませんし時間もかかります。だから本当は非常勤やポスドクをして食いつなぐしかない。それが今の僕の、適当な身の丈のはずなんです」
話すごとに胃が悲鳴をあげる。
堪えながら必死で言葉を絞る。
「でも教授は、万亀先生は僕の研究を面白いと言ってくれて……時間がかかることも解ってくださって……。だから先生はまだ結果も出ていない僕に、無理をして研究できる環境を与えてくれたんです。それに先生は、僕が結婚を考えてることも知ってました。そのためには生活の安定が必要だってことも」
今日こうしてお父さんに挨拶ができるのも、全部万亀先生のおかげだった。
僕だけの力じゃ何もできなかった。
だから。
「だから僕は……これから精一杯頑張らなきゃいけない立場で、助教にしてくれた先生にも、真千子さんにも、相応しい人間にならなきゃと思っていまして…………。つまりその、今の肩書きは借り物みたいなものということでして…………あの……ガッカリさせてしまって申し訳ないです……」
話がまとまらないまま、声が萎んでいった。
何もかもが恥ずかしくて仕方なかった。
借り物で飾って偉そうに挨拶に来ている自分が情けなさ過ぎる。気を抜くと今にも泣いてしまいそうだった。けどそれだけはと思って必死に堪えた。
「そうかい」
項垂れる頭の向こうからお父さんの声が聞こえる。急に背筋が寒くなる。今さら言わなければよかったと後悔が湧いてきた。僕はどこまでも情けない人間だった。
「真千子」
お父さんが言った。
「いい人を連れてきたねえ」
僕は顔を上げた。
お父さんがビールの瓶を向けてくれていた。慌ててグラスを取る。注いでもらったビールを飲もうとしたけど、両手に妙に力が入ってしまって上手く飲めない。
「覚さん?」
マチは僕の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「泣いてる」
5
『大林田』を出た僕らは、駅近の古めかしい居酒屋に入り直していた。ふぐのお店では結局何を食べたのかよくわからなかったし、緊張のせいで話し切れなかったことが沢山あったからだ。
「男親だけで育てたからどうなることかと思っていたけど。まっすぐに育ってくれてホッとしてるんだ。本人には言わないけどね」
お父さんは多少饒舌になっていた。親しみやすいお店だからか、それともマチが化粧直しで席を外したからか。
「真千子から聞いたんだけども」
お父さんの声音が少しだけ落ちた。
「覚君のご両親は……」
「はい」
僕は努めて自然に答える。もちろんそれも今日話さなければならないことの一つだ。
「うちも母だけだったんですが、その母も四年前に亡くなりまして」
事実をなるべく淡々と説明する。うちの両親は早くに離婚していて、物心ついた頃には母さんしかいなかった。親戚筋との付き合いもほとんど無いので、今は本当に一人きりだ。
「大変だったね」
僕は首を振った。
「僕は何不自由なく大学まで出してもらいましたから……。大変だったのは母だけで……今さらですけど、もっと親孝行できたんじゃないかと後悔してます」
「君に苦労が掛からなかったなら、それが一番の親孝行でしょう」
「そういうものでしょうか……」
「そういうものだよ」
僕は子供の頃を思い出しながらビールに口を付けた。お酒が潤滑油みたいにゆるりと回って、自然と口が開いていく。
「母との暮らしは幸せだったんですけど」
頭に浮かんだことを徒然とこぼす。
「ただそれでも、父親っていうものに憧れがなかったかというと、それも違って……」
久しぶりに思い出したのは、子供の頃の運動会や参観日の光景だった。
同級生と父親と母親。肩車された友達の姿。何の変哲もない、ただの家族。
「お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいて……。そういう普通の家が、できたら良いなと思ってます。や、その普通が一番難しいのかもしれませんが……」
「そうだねえ。普通というのはとても難しい」
お父さんは噛みしめるように呟いた。僕も自分で言った言葉の意味を、もう一度考えていた。
普通の家。
幸福ということ。
僕は幸せに育った。マチも幸せに育った。僕らはとても幸せな時間を過ごしてきた。
けれどもし僕とマチの二人が揃っていたら。
そしたらもっと幸せになれるんじゃないかと、何の根拠もなく、でもどうしようもなく、そう思ってしまう。
それはただの無い物ねだりなのかもしれないけれど。
「難しいことをやろうとしたら、頑張らなきゃいけないよ」
お父さんが告げる。僕はお父さんの顔を見た。
「覚君。どうか頑張ってください」
僕は覚悟を決めて。
お義父さんに応えた。
「はい」
「二人で何話してたの?」
戻ってきたマチが上から覗き込んだ。お父さんがほろ酔いで答える。
「いやなに、子供の話とかね」
「子供の頃の話?」
「ちがうちがう。子供の話」
「何話してるのお父さん……」
マチが波線みたいな口をして赤くなった。僕もだんだん理解が浸透して顔が熱くなる。最後にお父さんが同じ顔になった。誰も何も言えなくなり、居間のテレビで微妙な場面が流れた時のような気まずい空気がそれから五分も続いたのだった。
6
深夜の空に星が出ていた。
終電で南大沢駅まで戻った頃にはもう一時近かった。駅から徒歩一五分のアパートに向かって、僕とマチはのんびりと歩いていく。誰もいないので手をつないだ。昼は大学関係の知り合いが街に溢れているのでこんな真似はそうそうできない。
向かっていたのは僕の部屋だった。同じ大学に通っているからマチの部屋もすぐ近くにある。本当は同棲でもした方が家賃や生活費が節約できるのだけど。僕もマチも生来の生真面目さというか融通の効かなさのせいで、結婚前にそういうのは……と踏み切れないまま今日まで来てしまった。やっぱり真面目というのは損が多いと思う。
「お父さん言ってたよ」
マチが思い出して笑う。
「二人とも眼鏡だから真面目な夫婦になるよって」
僕も笑った。眼鏡だから真面目って。なんて思いつつも、多分そうなるんだろうなあという妙な納得もあった。
部屋に入って電気を点ける。1Kの部屋は荷物で溢れ返っている。内容は主に研究の資料や本だ。荷物置き場が必要なのは判っていたので、駅から遠い代わりにキッチン四畳の広めの部屋を借りたのだけれど。結局資料は四畳に収まり切らずに六畳間の生活空間をも侵食していた。マチは慣れた様子で荷物の獣道を通っていく。
スーツを着替えて息を吐いていると、マチがお茶を淹れてくれた。温かい湯気が部屋の空気を加湿する。
「覚さん」
「ん?」
「今日はありがとう」
「いや、そんな。僕の方こそ」
本当に僕の方こそ、お義父さんにお礼が言いたい気持ちでいっぱいだった。こんな半人前の僕を認めてくれた。結婚を許してくれた。思い出して、心の中に小さな火が灯る。
お義父さんと話して改めて解った。今日ここからが始まりで、これから頑張り続けなきゃいけないということ。研究とはまた別の、長い長い登山道のまだ入り口なんだということ。
だから僕は。
とにかく頑張らなきゃいけないと思ったんだ。
「マチ!」
僕は心の勢いのままに叫んだ。
「はっ、はい」
7
僕らの住む南大沢駅から二駅六分、橋本駅のすぐ近くに大型ショッピングモール『エアリアル橋本』がある。できてからまだ二年ほどの新しい商業施設で、中はおしゃれな店舗がずらりと並んでいる。
その中の一店で、僕はガラスケースを食い入るように見つめていた。隣でマチが困ったような顔をしている。
「指輪とかいいのに……」
「いややっぱりこういう節目のことはきちんとしないと」
「きちんとも何も、さっきまで婚約指輪と結婚指輪の違いも知らなかったのに……」
痛いところを突かれて呻く。自分の専門の神話だ民話だ以外に関しては、僕は悲しいくらいに物知らずだ。指輪の名前が違うくらいは知ってたけれど、まさか順番に両方買わなきゃいけないという過酷な風習だったとは……。きちんとなんて言ったばかりだが、残念ながらそれは予算の都合上不可能だった。
はっきり言ってしまえば僕らは貧しい。僕は助教になりたてだし、マチに至ってはまだ院生で二人の収入の当ては限られる。入籍後には当然引っ越しも控えているのでお金はいくら節約してもいい時期だった。結婚式もしないのは二人で決めている。
「だから指輪なんて……」
マチがもう一度漏らす。
正直にいえば、僕の中にも指輪代を節約した方がいいんじゃないかという気持ちが有り続けている。無理をしてもしょうがないとも思っていた。
でも。
「でも」
僕は自分の中にある、もう一つの正直な気持ちを口にした。
「買いたいんだ、マチに」
ケースに並ぶ貴金属を再び真剣に見つめる。
隣でマチが頷いてくれたような気がした。見てないので気のせいかもしれないけれど。
結婚指輪の並ぶ一角に何度目かの視線を走らせる。本来ならばデザインとか石とかを見るものなんだろうけど、僕は否も応もなく値札を吟味させられていた。一番安いものが。
ペアで一〇万円……。
それは痛すぎる金額だった。昨日の会食でもすでに三万円が飛んでしまっている。最初から二軒目の居酒屋に行っていればみんな幸せになれたのに……などというしょうのない後悔が湧いてくる。
いや待とう。少し冷静に考えてみよう。そもそも結婚指輪はペアでないといけないなんて誰が決めたんだろうか。たとえば僕が指輪をしたとしても、研究中の資料に傷でもついたら大変なので仕事中はきっと外してしまうはずだ。僕らは式も挙げないわけだし指輪の交換もない。なら緊急で両方揃える必要はないのでは……。一案だけど今日はマチの指輪だけ買って、生活に余裕が出てきたら僕の方を買うとかそういう方法も……。
「覚さん」
マチに呼ばれた。向こう側のショーケースの前で手招きしている。そちらに寄って行くと、彼女がケースの中を指さした。
「これがいいよ」
マチが指したのは結婚指輪とは違うコーナーに並んでいる、シルバーのペアリングだった。
二つの指輪をよく眺める。石は付いていない。特別なデザインでもない。ただ金属が輪になっただけのシンプルな指輪が二本。値段はペアで一万円だ。
僕はなんとも情けない顔になった。
誰がどう見ても気を使われているのが解る。しかし気を使わないでと言える甲斐性もない。
昨日に引き続いて僕はやっぱり情けなくて、だから情けない顔をするしかなかった。
「覚さんはどうせ」マチが眼鏡のつるを上げて言った。「片方だけなら買えるかもとか、変なことを考えていたんでしょうけど」
「なんでわかるの……」
マチは僕の質問に答えずに微笑む。
「値段はいくらでもいいの。デザインもなんでもいい。でも絶対に二つでないと駄目」
それが結婚指輪なの。と、マチは僕に教えてくれた。
僕はそんなことも判らないくらい馬鹿で。
だからもう観念して、マチが選んだ指輪を買うことに決めた。でもきっとそれが正しいんだと思った。
ショッピングモールの休憩所は子供達が物凄い勢いで走り回っている。そんなムードもへったくれもない場所で僕は彼女の手に指輪をはめた。サイズを測ってもらって買った指輪は、当たり前だけどマチの薬指にぴったりだった。
8
買い物を終えた僕らはマチの部屋に行った。僕の部屋とは比べようもなく片付いている。多分彼女の専攻が宇宙物理で、宇宙は部屋に収集できないからだと思う。
マチはお茶を飲みながら、薬指の指輪をニマニマと眺めている。喜んでもらえたなら何よりだ。僕はといえば生まれて初めてする指輪の感触がなんとも落ち着かなかった。ひとしきり楽しんでから二人とも外してケースに戻す。次に付けるのは結婚した後だ。
「そういえば気分だけでもと思って買ってみたんだけど……」
僕はモールの本屋で買った雑誌をテーブルに出す。
「あ、『メルフィ』」
マチが目を輝かせて本をめくった。それは日本で一番有名な結婚情報誌だ。僕も反対側から本を覗き込む。多分人生で一度くらいしか買わない本だろう。
彼女は興味深げに結婚式場の特集ページを読み始めた。大人気の式場『エテルニエ表参道』ではフォトジェニックなアートワークに彩られたオフホワイトのチャペルがクラシカルかつラグジュアリーでゲストのエグゼクティブもディナーパフォーマンスがデザートビュッフェらしかった。僕は専門の研究者ではないので意味がよくわからない。
「挙式だけでも本当にいろいろあるんだね」
「でもなんか演出過多じゃないかなあ……。これなに?」
「巨大クラッカー演出だって」
誌面の写真を見る。チャペルの中に入ってきた新郎新婦が巨大クラッカーの紙テープに絡め取られていた。結婚式の演出というよりも野生動物の罠みたいに見える。
「あ、これ可愛い」とマチが指したのは、ウェディングドレスの裾を持って歩く子供の写真だった。よく読むとドレスの裾じゃなくてベールを持っているんだそうで、ベールボーイ・ベールガールというらしい。これも初めて知った。
「こういうのって親戚の子がやるのかね」
「この式場は手配してくれるみたいだよ。いいね。可愛いよね」
マチははしゃぎながら分厚い情報誌を楽しんでいる。
式は挙げられないけれど。僕達だって間違いなく結婚するのだから、せめてこれくらいの楽しみはあってもいいかなと思った。
「新婚旅行も行けないしね……」
「また勝手に落ち込んでる」
マチが呆れて言う。
「別に行けないことはないと思うけど」
「うん?」
「覚さんが『新婚旅行だから海外に数日』なんて思い込んでるだけでしょう? 週末に近場へ行くくらいでも充分旅行なんじゃない? たとえばええと、箱根の温泉とかは? あとは日帰りで高尾山とか」
なるほどと思いつつも、箱根はともかく高尾山は流石に近過ぎだった。南大沢からは車で三十分もかからない。神社や史跡も多いのでフィールドワークでしょっちゅう行っている。新婚旅行と定期巡回は流石に区別したいなあと思う。
と、ちょうどその時に僕のスマホが鳴った。
画面には《万亀先生》の文字が表示されていた。