この星空には君が足りない!
第1章 ハローニューワールド!
宇宙をのぞくとはなんと甘美な響きだろう。天体や星雲、銀河は人間が目にできる最大の芸術であり、同時に未だ解き明かすことができない最難関のパズルだ。
ガリレオ・ガリレイが初めて宇宙へ向けた望遠鏡が、今日では宇宙天文台として打ちあげられているという事実も、ちょっとスケールを小さくして天戸すばるがキャンパス内を全力疾走しているのも、人類が宇宙に胸を焦がし続けている証拠といってもいいだろう。
「すばる! 合コンのメンバー足りないんだけど、今夜どうだ!?」
講義を終えた友人に、すれ違いざま声をかけられる。
「スピカちゃんが出席するなら喜んで!」
ずれた眼鏡を正しながらすばるが答えると、友人は肩をすくめてみせた。今度は、逆方向からよこされる声。
「前に話したライブなんだけど、一緒にいかないか!?」
「ごめん! 僕はこっちのアイドルに夢中で、目移りする余裕がないんだ!」
すばるは真上を指し示してみせる。狐につままれたような友人の顔を見届けて、一層早く駆けた。
「羊飼い系男子は今日も相変わらずか」
あきれ混じりに呟かれた新ジャンルな男子像は、大学全体で認知されているすばるのあだ名だった。
メソポタミアに流れ着いた遊牧民は羊の番の最中に、満天の星空へ想像力を羽ばたかせた。星と星をつなぎ合わせ、夜空に星座を織りこんでみせたのだ。ロマンチックにいってみたけど、要は星バカというわけだ。
だけど、それは天文学科に籍をおくすばるにとって褒め言葉以外の何物でもなかった。
人だかりをすり抜けて、まっしぐらに研究室へ駆ける。肩にかけたバッグにはお泊りセットが入っているからいつもより重たい。だけど、すばるの体は羽でも生えたように軽かった――なぜかって?
だって、もうすぐ巨大望遠鏡をのぞけるんだから。
すばるが在籍している大学は、キャンパスとは別に天文台を所有している。アジア最大級の望遠鏡という触れこみで、その筋の人たちには大変な知名度を誇っていた。この夏休みに、すばるがゼミでお世話になっているジョセフ教授に同行させてもらうのはアジアで最も星に近い場所だった。
初めて宇宙をのぞいた日は今でもよく覚えている。小学生になったばかりのすばるを、宇宙と引き合わせてくれたのは天文台で働く父だった。
ある冬の夜、父はすばるを河川敷へ連れだして、白い息を吐きながらセッティングした双眼鏡を手渡してくれた。当時のすばるは双眼鏡をおもちゃとしか見ていなかったけど、後で高価な品と知って飛び跳ねたものだ。
「いいかい、すばる。宇宙は元々、極小の一点だったんだ。それが膨張し、気の遠くなるような年月を経て恒星や銀河、果ては生命――つまり、僕たちをかたどったんだよ」
父の穏やかな語りはおとぎ話のように聞こえたけど、すばるはしっかりとうなずいた。大切なことを伝えようとしている気がしたからだ。
「原始の宇宙がお母さんなら、僕らは分け隔てなくその子どもなんだ。君の体は遥か昔に飛び散った恒星だったり、偶然通りがかった彗星が運んだりしたものでできている。だから、これからすばるが目にしようとしているのは決して未知の世界じゃないんだ。かつて、君だったものとの再会なんだよ」
その言葉は教科書に綴られている無愛想な文字よりも、ずっと深く心に染みこんだ。すばるは息をのんで、慎重にスコープをのぞきこむ。運命が変わってしまいそうな予感に、心臓が聞いたこともない音色で高鳴った。
次の瞬間、目に映ったもの――すばるはそれに魂を打ち抜かれた。
おうし座の背に跨ったプレアデス星団M45――和名を「すばる」。視界には自分と同じ名をもつ散開星団が、青白い光を放っていた。
信じられなかった。こんなにも美しい存在が、かつての自分だったかもしれないなんて。
価値観が根こそぎ引っくり返った。瞬きも、呼吸さえとまった。すばるは今、目にしているものの尊さを、そして二つ目の心臓のように胸を叩く感動をいい表わせる言葉をなに一つもち合わせていなかった。
ただただ、涙が流れた。拭っても次から次へとあふれてきた。鼻水も流すがまましゃくりあげ、きっと顔中がひどい有様だっただろう。感情が芯から熱くなって、そんなことは生まれて初めてだったからどう表現していいかわからず、だけども留めておくことはできなくて、心を直に絞った衝動が叫びとなった。
「僕、星を研究する人になる!!」
あの星にとり憑かれた夜から全部が始まった。
あんなに夢中になっていたゲームもカードもやめた。褒められるためにテストで満点をとることもやめた。自分のいきたい場所へ、自分の足で辿り着けるように勉強に打ちこんだ。目的地が定まったら、目指すべき中学や高校、大学が見えてきた。
残念なことに、頭の出来はよくなかったからとても苦労した。天文学者なんて不相応な夢だったのかなと挫けそうになったことは数えきれないほどある。
それでも、すばるには星があった。望遠鏡をのぞけば何億光年彼方から届く光に乗って、一回きりの命を捧げるべき場所がはっきり見えた。
すばるはあの時に、星という生涯を懸けるテーマを心臓へ刻まれたのだ。それは、自分がどこからきて、自分が何者で、自分はどこにいくのかを知るための挑戦でもあった。
だから、すばるは直走る。光さえ迷子になる距離に阻まれようとも、遥かな星へ手を伸ばし続けると誓った。息絶えるその瞬間まで、この速度を落とすつもりはない。
その疾走の通過点として、幸運にもここへ至ることができた。
教授が運転していた車がとまる。すばるは爪先を躍らせて助手席から飛びおり、待望の天文台を仰いだ。
天文台は視野を確保するために山のうえにある。世界的に有名なケック天文台や巨大双眼望遠鏡LBT、そしてすばるの大学の天文台も例に漏れなかった。
大きな天体望遠鏡はドームに守られて建物と一体化している。よく意外に思われるのは、巨大望遠鏡には肉眼でのぞく機構がないことだ。ならばどう観察するかというと、宇宙から受けた光を電気信号に変換して画像データを作成することになる。これが、普段目にするフルカラーの天体画像になるのだ。
天体望遠鏡へ観測条件を設定したら、ドームは無人になる。人の体温でさえ気流を乱し、観測に悪影響を及ぼしてしまうからだ。準備を済ませたすばるは別棟のモニター室に移動していた。
やがて、主役が現れる。ロマンスグレーの髪が素敵なジョセフ教授だ。
「やぁ、すばる。私の研究に手を貸してもらって悪いネ」
「そ、そんなことありません! 貴重な体験をさせてもらって、こっちがお礼をいいたいくらいです!」
こんなちんちくりんが本格的な天文台へ足を踏み入れられたこともそうだし、ジョセフ教授の研究を手伝えるなんて天文学者の卵にとってみたら夢のような出来事だった。
ジョセフ教授は宇宙研究の第一線で数々の発見を成し遂げてきた天文学者だ。すばるは教授に教えを乞いたくて、彼のゼミを熱烈志望したのだった。
「君ほど天文学者を真っ直ぐ目指す学生は珍しいからネ。お節介を焼きたくなるのだヨ」
ジョセフ教授は茶目っ気たっぷりにウインクを振る舞った。
「ところで、提出してもらったこのレポートのことなんだがネ」
ジョセフ教授は丸眼鏡のブリッジを押しあげて、おもむろに一枚の紙をとりだした。
それは、苦心の末に完成させたレポート――ではなかった。一向に進まない課題に頭を抱えながら、現実逃避的に書き進めた「もしも一等星が女の子だったら!」というすばるの阿呆さが滲みでているリストだった。
もうこれ恥ずかしいってレベルじゃないぞ!?
「すすすすすすすみません! 間違って別のを提出してしまいました!」
教授の表情は険しく、唇は真一文字に結ばれている。雷が落ちると思いきや――
「フォーマルハウトの性格が、どうもしっくりこないのだガ……」
「そっち!?」
思わずため口になっちゃったよ!?
だけど、すばるだって半端な気持ちでつくった代物じゃない。知識と愛をありったけ注ぎこんだのだ。例え、尊敬する教授であろうとも譲歩する気はない。
「フォーマルハウトは秋の夜空で、ぽつんと輝く唯一の一等星だヨ? 故に、ピアスの穴を開けているちょっぴりすれたクール系美少女にするべきではないのかネ?」
「いいえ、教授。だからこそ、フォーマルハウトは寂しがり屋なウサギ系美少女なんです。この設定は絶対に譲れません!」
「しかしだネ! それでは、私の好きなクーデレ要素が皆無になってしまうのだヨ!」
「堪えてください、教授! これはすでに決まってしまったことなんです!」
徹底討論はかれこれ一時間ほど続いたけど、甚だしく不毛なので割愛させて頂く。でも、一つのことに夢中になれるっていいことだよね!
その時、モニターへ動きが生じた。天体望遠鏡が捉えた宇宙の光が、画像として送られてきたのだ。馬鹿話を切りあげたすばると教授は、モニターへ向けた目をひん剥いた。
「――――――――――――――――――――――――へ?」
ずりさがった眼鏡を直す気にもならない。一体全体、今の心境をどう表現すればいいのだろう?
画面には女の子が映しだされていた。瞬きを許さないくらい綺麗な子だ。爪先立ちをしてパンツを竿にかけている。信頼と安定と歓喜の白だった。
拝まねば。眼福、眼福――じゃなくて!!
すばるの頭が疑問符まみれになるなか、ジョセフ教授が雄叫びをあげた。
「あれがシルクか木綿なのか、それが問題ダ!!」
こんな異常事態でも思考停止に陥らない――さすが教授だぜ! 人間性を疑うけどな!
状況を飲みこめない二人をあざ笑うように、画面が切り替わる。そこには黒の背景に白抜きで、こう記されていた――お前たちを消さねばならない、と。
耳を劈く轟音。矢継ぎ早に立ってられないほどの震動に見舞われる。システムが次々と落ちて、瞬く間にブラックアウト。
――停電!? 近くに雷でも落ちたのか!?
逃げなくてはとわかっているのに、腰が抜けてちっとも身動きがとれない。
再び、この世のものとは思えない物音が耳朶を打った。
これ、さっきより近くなって――――――――――――――…………………………………。
己と世界をわけ隔てていた境界がなくなり、白亜にまどろみ溶けていく。消えゆく意識とはかくあるものかとすばるは虚ろに思う。
どうやらというか、やっぱりというか、わけのわからない事件に巻きこまれて、わけもわからないうちに死んでしまったらしい。
「――――る様!!」
――あぁ、人生これからだったのに。せめて天文学者になるまでは頑張ろうよ、僕の天命。
「―――すばる様!!」
耳に引っかかる呼びかけに、現状の異様さに思い至る――こうして誰かの声が聞こえるってことは、まだ僕が死んでいない証拠じゃないか!!
跳ね起きたすばるの目に映ったのは、心配そうにのぞきこんでくる女の子。
「あぁ、よかった。このまま目覚めて頂けないのかと思いました」
「き、君は――?」
すばるが問いかけると、ゆったりとしたローブを纏い、ロングの黒髪に褐色の肌というミステリアスな美貌の少女がお手本のような笑顔を咲かせた。
「私はティポンと申します。ニュンペーとして生を受けました」
「……僕は天戸すばるです」
ニュンペーという聞き覚えのある単語に頭の片隅を刺激されながら、すばるは握手を交わす。だけど、思い出せそうで思い出せないもどかしさは間もなく木端になった。
自分の手が透けているのだ。いや、手だけじゃない。よくよく見ると、体全部が半透明になっている。まるで、魂だけの状態になったというように。
卒倒しかけたすばるへ、さらなる追い打ちがかかる。
周囲の空間は、上下右左が無尽の漆黒で塗り潰されていた。今にも奈落へ吸いこまれてしまいそうで、生存本能が片足立ちを命じる。それでも、安心できないすばるはけんけんをするように跳ねた。
奇行を敢行したすばるを見て、ティポンは「くすくす」と笑う。
「あのっ! ここは一体どこなんですか!? どこもかしこも真っ暗なんですけど!!」
「どこだと思いますか?」
少し意地悪するように、ティポンは問い返す。すばるは口を半開きにして考え――
「……地獄?」
「外れです。では、ヒントをどうぞ」
ティポンが腕を掲げた遥か向こう――なにかが轟々と通過していった。
目を凝らす。初めは鯨かと思った。でも、違う。それは、巨岩だった。
――彗星……なのか? だとしたらここって――
「……宇宙?」
「ぴんぽんです」
衝撃の答え合わせに、すばるは脳みそが発砲スチロールになったような心地を味わった。
「厳密には半分だけ正解ですね。宇宙は宇宙でも、ここは特別な神域なんです」
「そ、そんな!? あり得ません!! 宇宙空間に生身で存在できているなんて!?」
子どもにだってわかる。宇宙空間へ飛びだすためには、宇宙服が必要だってことくらい。だけど、すばるの否定に、ティポンはちっとも揺るがない。
「すばる様は、アステリズムをご存知ですか?」
それは、宇宙に惹きつけられる者にとって馴染のある言葉だった。
「星と星とを結んだパターンのことですよね……?」
「おっしゃる通りです」
すると、ティポンはおもむろに指を宙に走らせた。その軌道に沿って琥珀色の線が生まれいずる。結ばれた四角は物質として存在を勝ちとり、少女の手のひらで浮き沈みを繰り返した。
悪戯っぽくはにかんだ少女は、四角を小突いてすばるへ飛ばす。すばるは熱々の肉まんを投げよこされたように、奇跡の産物をキャッチした。
「この世界に存在する全ての物体は、アステリズムで結ばれてできているのです。私では単純な形状を生みだすので精一杯ですが」
ティポンが種明かしのように告げるものだから、すばるはぶったまげてしまった。
「んな馬鹿な!? それじゃあ結局、存在しないことと同じじゃないですか!?」
「そんなことありません。現にすばる様たちは夜空にアステリズムで結ばれたペガサスやヘラクレスを見るではありませんか」
「で、でもですね! どこを探したってペガサスはいないし、ヘラクレスだって実際には十二の難行に挑んだわけではないでしょう!?」
「ですが、すばる様の惑星では書物として記され、多くの人々が星座を認識するのでしょう?それは、もはや存在していることと同義ではないでしょうか。それに、ペガサスはここへいますよ?」
ティポンは何気なく宙をなでた。まるで、そこへなにかが本当に存在するかのような手つき。一瞬、天馬を錯覚したような気がして頭を振る。
「認識とは無を有に転じる偉大な力だということを覚えておいてください。この世界ではそれがなにより重要です」
そう告げたティポンは、すばるの視線を誘導するように虚空へ手をやる。
「それでは、幕を開きましょう。認識してください。そうすれば、世界は応えてくれます」
目を疑う。ティポンの指が確かに平面を滑っているように見えたのだ。だけど、それは序奏にすぎなかった。
湖面へ一石が投じられたように、変化が波紋として伝播していく。
空間を定義するように、黄金の飛沫をあげながらいくつもの線条がほとばしり、結びつき、まずは無から形状が生まれた。波打つ線はやがて確固たる色彩と質感を得て静止する。
「私たちの世界をかたどるのは、万物の素であるメタフィシカと、認識のエネルギーであるエーテルです。その両方を練りこんで紡がれたアステリズムこそが、物質を生成するのです」
マジシャンの指鳴りで奇跡が具現化するように、世界が鮮烈に変貌をきたす。
たち尽くしていた暗黒の虚空は払拭され、瞬きの間にきらめく森が姿を現したのだ。リアクションをとれずに、すばるはしばらく呼吸する棒きれと化した。
「では、主様のもとへご案内いたします。こちらにお乗りください」
ティポンが掲げた手の先――そこには、純白の翼を有した天馬が控えていた。
「ペガサス!?」
「すばる様はケンタロウスのほうがよかったですか?」
いるの!? ケンタロウスいるの!?
まごつきながらペガサスの背に跨る。後ろで手綱を握るティポンから「準備はいいですか?」と尋ねられ、実はまったく心の準備ができていないながらもうなずいた。
幾度かの羽ばたきで潤沢な揚力を獲得し、ペガサスは天へと駆けのぼる。見おろす光景は、まさに新世界だった。
周囲は鷹の顔と獅子の体をもった怪物――グリフォンが哨戒に当たっている。眼下の豊饒な土地では、見目麗しい天女や半人半獣の幻獣の姿が見えた。
目を移すと、ローマを思わせる壮麗な建築物が並び立つ都市部も見受けられる。人とそう変わらない姿の存在が絶え間なく往来していて、景気よく賑わっていた。だけど、大理石から削りだしたかのような理想的肉体や、神々しいオーラで人間とは一線を画する生命体であることがわかる。
ペガサスを追い抜くように、彗星が轟音をたてて通過していった。だけど、今のすばるの目に映るのは単なる巨岩などではなく、アステリズムで描かれた列車だった。一つ目の巨人や、頭が牛の怪物がマナーを守って乗車している光景がなんともシュールだ。
彗星列車は、頂が霞む霊峰へ吸いこまれるように走っていく。
「あちらがオリュンポス山です。主様の住居になります」
聞き覚えのあるその名に、予感は確信へ羽化しつつあった。すばるはこの世界の正体に至る。
まったくもって信じがたいことだけど、ここは神々と幻獣が跋扈するギリシア神話の世界だ。ならば――
「ティポンさん、教えてください。貴方の主の名前を」
「オリュンポス十二神の長である御方――最高神ゼウス様です」
峻嶮なる山の頂に到着すると、ティポンはすばるをパルテノン神殿のような建物へと導いた。やがて、仰ぎ見るほど巨大な扉の前で立ちどまる。
「謁見の間です。主様はここでお待ちです」
ティポンが触れただけで扉が反応する。最高神と対面する心の準備が済む間もなく、眩い光の洪水と共に人影が飛びだしてきた。
瞬間、すばるの頭へ居座っていたゼウスのイメージがでんぐり返った。
ぱたぱたと駆けだしてきたのは、完璧な設計図のもと精霊銀から錬成されたかのような幼女だった。嘘くさいほど整った顔立ち、目にした者の魂を抜き去りそうな銀髪、どれも黄金律のような真理を証左するかの如く美しい。
そんな熾烈なほど可憐な女の子が、これまた美少女と評するのになんら異存のないティポンへ喉を鳴らしてじゃれついたのだ。
「ティポンちゃーん! にゃんにゃんしよー!」
「あ、主様! 人前ではご遠慮くださいと申しましたのに!」
「んぅー? もう、恥ずかしがるなよー!」
密着する二人の背後にお花畑を幻視しながら、ゼウス=破廉恥幼女という鉄の新公式ができあがっていた。
「ん? 君、誰だい?」
破廉恥幼女――ゼウスがすばるに気付いて小首をかしげる。豪奢なティアラが凛と鳴った。
いや、貴方に呼ばれているって聞いたからきたんですけど……。
慌ててティポンがゼウスへ耳打ちをすると、合点がいったようで――
「いやー、すっかり君への用事――というか存在自体を忘れていたよ。むしろなんでこんな小汚いのが視界に入ってるんだよ、排除すんぞって思ったくらいだよ」
こえーよ。思考回路が独裁者仕様に振りきりすぎだろ。
「申し訳ありません、すばる様。どうかお気を悪くしないでください」
すかさず、ティポンがフォローを入れる。当の本人は、王座へ腰をおろして他人事みたいに足をぶらつかせていたけれど。
「あっ、そうそう! 君ね、困るんだよ、勝手にあんなことされるとさぁ!!」
指差しながらのお叱りだったけど、なんのことだかさっぱりわからない。
しらばくれていると捉えられたらしく、ゼウスは「ぐぐっ!!」と前のめりになった。
「天文台での一件のことだよ! おかげで僕は、口封じのため君を手にかけざるを得なくなったんだ!」
手にかけざるを得なくなった――って、まさか!? 燃料を注がれたように回る頭が、今際の際に耳にした轟音をよみがえらせる。
神話によると、ゼウスは雷霆の使い手だ。その桁外れの威力たるや他の追随を許さず、敵対する神たちをことごとく屠ったと記されている。
そんな大層な一撃で葬り去られたというわけかと理解はすれど、納得できるはずがなく――
「ちょっと待ってください! どうして殺されなくちゃいけなかったんですか!?」
「思いだしてご覧よ! 君は望遠鏡でなにを見たのさ!?」
なにを見たって? えぇっと――
「……女の子とパンツ」
口にしたら案外酷い台詞だった。ティポンの微笑みも心なしか引き吊っている。
「そう! 君はあろうことか、神園宇宙をのぞきこんでしまったんだ! 挙句の果てに星像までばっちり捉えてくれちゃって!」
待て待て。神園宇宙? 星像? なんのこっちゃ?
未曾有の混乱に陥るすばるへ手を差し伸べてくれたのは、またもティポンだった。
「すばる様は、おとめ座の神話について知っておられますか?」
すばるのうなずきを見届けて、ティポンは星座にまつわる物語を紡ぎ始める。
「大昔、地上は豊かで平等がいき渡り、誰もが清廉潔白な心根をしていました。故に、神々も地球を楽園として人間と共に暮らしていたのです」
「金の時代って呼ばれていた頃ですね」
「四季が移ろうようになり寒暖が生まれ、人間は服を着て食物を自足することを迫られました。やがて、豊かな者と貧しい者の差ができ、弱い者いじめが起きます。神々は嘆き、人間を見限って天上へ帰っていきました。ですが、正義の女神だけは、地上に残って人間に教えを説き続けたのです」
「それが銀の時代」
「しかし、努力の甲斐なく堕落はとまりません。人間は凶悪な嘘と暴力を振るってますます争うようになりました。正義の女神は失望し、とうとう天空へと昇りました。これがおとめ座です」
「地上に神がいなくなった銅の時代――でもそれがどうしたっていうんです?」
「頭の回転が鈍いね。今のは実話ってことだよ。君らは醜悪さがたたって地球へとり残され、僕らは神園宇宙へ帰還したってことさ。もっとも、これに限らず全ての神話はノンフィクションなんだけどね」
ゼウスの言葉が実体をもってぶつかってくるようで、すばるはしばし木偶と化した。
「そ、そんなことあり得ない! 大体、君が女の子であること自体おかしいんだ! 神話が実話だっていうならゼウスは男の筈だ!」
この反駁に、ゼウスは突発的にティポンの太ももをすりすりしだした。ティポンの悲鳴もどこ吹く風で、ゼウスは誇らしげに笑って一瞥をくれる。
「つまり、こういうことなんだよ!!」
「どういうことだ!?」
なに一つわからないよ!?
「神話を綴った人間の教養にはまだ百合という概念が根づいてなかったんだよね。だから、僕は帳尻合わせのためにむさい男性像に仕立てあげられてしまったのさ」
新訳ギリシア神話である。ゼウスがとっかえ引っかえした、ハーレムラノベの主人公も顔負けの女の子の数を考えると、一部の層から熱烈な支持を受けそうではある。
「話を戻そう。つまり、君は本来観測し得ない神園宇宙にまで視野を到達させてしまったんだ。これは、人間なんかが触れていい秘密じゃない」
罪状を突きつけられたものの、すばるには腑に落ちない部分があった。
「僕が使った望遠鏡は確かに高性能だけど、地球にはさらに倍率の高い巨大望遠鏡がある。だとしたら、神園宇宙はしょっちゅう目撃されているんじゃないか?」
ゼウスは露骨に態度を変えて、背泳ぎの練習みたいなことをやりだした。明らかになにか隠してますよね?
「本来ならば、神園宇宙は主様の力で観測し得ないようになっているのですが、あの時は事情があってセキュリティホールができてまして……」
ティポンは心苦しそうな顔をする。そこへ、ゼウスがドヤ顔でいい放った。
「辺境の星に天使すぎるニュンペーを見つけてね! ちょっくらさらおうと出入り口をつくっていたのさ!」
「あんた、みずがめ座のガニメデスの時も同じようなことしてたろ!?」
「まぁ、懐かしい。ガニメデス様は目にも眩しい美少年でしたね」
「美少女だと思ったから誘拐したのに、脱がしてみたら立派なブツがついてたもんねぇ。青天の霹靂とはあのことだよ」
二人が咲かせるぶっ飛んだ昔話にも、耳を傾けられなかった。この話の流れなら、こちらは毛ほども非がないことになる。とんだ死に損だ!
「完全にあんたの劣情が招いたミスじゃないか! さっさと生き返らせろ!」
「もちろん、僕に非があったことは認めるよ。だから、こうして君の死後の魂を天上へ招待したんじゃないか」
瞬間、色狂いな幼女の仕草は鳴りを潜め、最高神の威容を纏ったものだから、まだまだ恨み節を連射するはずだった口はジャムってしまった。
「君の未来を絶ってしまった罪滅ぼしだよ。君は星が好きなんだそうだね? だったら、僕が最高の舞台を用意してあげようじゃないか」
「……断るといったら?」
「直ちに君の魂を根絶する。もちろん、そうなったら君は生き返れず地球にも戻れない。了承してくれたら、神園宇宙で生活するのに不自由のない体をプレゼントしよう。といっても、強度自体は人間とさほど変わらないから、無理したらぽっくり逝っちゃう点は気をつけてね。さすがにそこまで面倒を見きれないよ」
ゼウスは欠けゆく月のように双眸を細め――
「君にとって悪い話じゃないと思うけどな? 無論、僕にとってもね。恥ずかしながら人手不足なんだ」
本音はこちらなのだろう。罪滅ぼしなんて聞こえのいい建前。安易にうなずいてしまったら最後、なにをされるかわかったものじゃない。
だけど、星に魅入られた者として、すばるはどうしようもなく興味をそそられてしまっていた。
神園宇宙という世界における星のありかたとはどういうものなのか? 星像とは一体何者なのか? 見てみたい。どうしても、この目で。
向う見ずな好奇心が臆する心を打ち破った。例え死んだとしても滑稽なくらい僕は僕なんだと、すばるは自覚する。
「わかった。その話に乗るよ」
覚悟を帯びたすばるの表情に、ゼウスは満足げに玉座へ腰かけた。
「交渉成立!!」
ゼウスが手を鳴らすと、すばるの頭上へ紙が出現する。ひらひらと舞い落ちてくるそれらをキャッチすると、履歴書のようだった。
「これから君には、その子たちで星座をつくってもらう。成功した暁には、地球に戻すことを約束しよう」
ゼウスは最高神に恥じない貫録を声音へ乗せ、すばるが果たすべき使命をのたまった。
「さて、そうと決まれば神園宇宙について説明しておきましょう」
ティポンはにっこり笑って、可愛らしく手招きした。
第2章 スターゲイザー・ミーツ・スターガール!
まず神園宇宙とは、銀河の集まりである超銀河団が連なることによって、さらに大きな構造を獲得した銀河フィラメント中に存在する特別な神域を指すとのことだった。
銀河フィラメントの単位である各超銀河団は国であり、超銀河団の単位である各銀河団は都市であり、各銀河団の単位である銀河は町である。つまり、銀河の光はメトロポリスと考えていいというティポンの説明で、ようやくすばるの理解は追いついた。
だけど、ゼウスが全ての超銀河団を治めているわけではない。言うに及ばず、神話は一つだけじゃない。地球に限ってみてもケルト神話、北欧神話、エジプト神話と種々多様だ。神園宇宙には異なる神話体系の神々が存在し、それぞれの生活圏を構築している。といっても、ゼウス率いるギリシア神話一派が最大勢力として、多くの超銀河団を支配しているようだ。
銀河は時が経つにつれて分離していくけど、それをつなぎとめているのが星間に稠密して描かれたアステリズムの大都市なのだという。この収縮作用は人類にとっては謎多きことで有名なダークマターとして観測されている。
銀河内のハローと呼ばれる謎の物質が詰まっている領域も、フリッツ・ツヴィッキーが明らかにした銀河団の失われた質量も、その正体が人間には見えない神々の街だと知ると、天文学者たちは仰天するに違いない。
ギリシア神話勢力圏の中心地たるゼウスの王城に付属した神立機関特区内――外見的には校舎にも似ている建物の廊下を、すばるは緊張の面持ちで歩いていた。
隣の部屋を見ると、下級男神やらニュンペーらが忙しそうにいき交っている。
机には、神園宇宙において電話の役割を担うツールがずらりとおかれている。これがおもしろい代物で、コールすると流星となって通信相手に届くのだ。だから、この部屋にはきらめく流れ星たちが休む間もなく往来している。
少し耳を傾けてみよう。
「ぜひとも、北極星は引き続きポラリス様にお願いしたく連絡を差しあげました。じっとしているのは退屈だから断る? そこをなんとか……」
契約をとろうと四苦八苦しているようだ。変わって隣は――
「新国王が誕生した記念に、星座をつくる気運が高まっているということですね。形状は王冠を模したものと。配する星像の希望は……一等星が二個もですか!?」
こっちは新しい星座のオーダーが入ったらしい。
ゼウスの命に従って星空環境創造整備部という組織に所属してから、すばるはこの世界の成りたちに何度も度肝を抜かされた。
第一に、星座とは宇宙に散在する知的生命体によるアステリズムの知名度をバイヤーが察知して、受注される神園宇宙での公共事業だということ。彼らが思い描いたパターンを設計図に、適切な恒星を適切な位置に配置するのだ。こうして強調することで、知的生命体へ星座と認識されることになる。
無論、事業と名がつくからには無償なわけがない。星座を媒体にして知的生命体から認識の力を吸いとらせてもらう。つまり、養分を吸う根っこなのだ。その際、鍵になるのが星像だ。
いくつかの恒星には神に準ずる高位の存在が自然発生的に宿り、星を母体としながらも自立した肉体と人格を有している。これが、星像と呼ばれている。
ちなみに、全員が超ド級の美少女だ。おかげで、ゼウスが出張先で夜伽の相手に困らないと鼻のしたを伸ばして喜んでいる。いたいけな星像が、変態の歯牙にかからないことを祈るばかりだ。
話しが逸れてしまった。元に戻ろう。
星座に組みこまれた星像は吸いあげた認識の力を、エーテルという目に見えない粒子に変換して宇宙へ放出する。これこそが、神であろうともつくれないものであり、星像が精霊や幻獣とは一線を画す地位を得ている所以だ。
メタフィシカという万物の素があるのに、どうしてエーテルが必要なのかと首を捻るかもしれない。すばるだって、最近までそう思っていた。
丁度差しかかったカフェテラスには、多くの職員がご飯にありつこうとトレイを手に並んでいる。長蛇の先には、髪と髭の区別がつかない毛むくじゃらな神様が台座へ胡坐をかいていた。
神様は食券を見て、ふむとうなずく。腕まくりをするとトレイへ手をかざして一閃――かけ声を張りあげた。
両手からほとばしったスパークが沈静化する頃、出来あがっていたのは見るもおいしそうなナポリタン。ちなみに、髭が数本入ってしまうのはご愛敬。
ゼウスの王城ではお馴染みの光景でも、辺境の小銀河ではこうはいかない。エーテルの濃度が低いからだ。
神園宇宙には確かに万物の素であるメタフィシカが満ちている。だけど、エーテルがなければ無用の長物なのだ。エーテルはメタフィシカ同士を連結させる力があり、この状態になって初めて物質生成という奇跡が可能になる。
とはいうものの、誰もがなんでも好き勝手につくりだせるわけじゃない。アステリズムの構築は技術の一大体系であり、術者の神格も完成度に大きく影響する。
一般に、精霊や幻獣程度では無機物を生成するのが関の山だ。だけど、神ともなると有機物も創造の射程圏内におさめてしまう。つまり、食料などといった命を保つために必須の物資は神々しかつくり得ないのであり、神園宇宙の住民はそれらをメタフィシカで生成した貨幣を対価として買い求める。だからこそ、神々は特権的な地位を確立するに至った。
神と星像――この両者が、神園宇宙の最重要インフラを整備しているというわけだ。
だからといって、星像は無条件で崇め奉られるわけじゃない。彼女たちの地位はエーテルの獲得量によって、厳然たるランク分けがされている。最上位の星像は浴びて酔うほどの富や名誉を与えられ、神に準ずる権勢を誇るけど、底辺はそれこそ明日の食べものにも困る生活を送っている。
故に、星像たちはより目立つ星座を射止めようと鎬を削っている。多くの知的生命体に認識されたほうが、エーテルを稼げるからだ。チャールズの樫の木座とか、ハーシャルの望遠鏡座とかいったマイナーな星座は、国際天文学連合で定められた88の星座が収集するエーテルの量には敵わないし、その括りのなかだって殊更有名な黄道十二星座が幅を利かせている。
星空環境創造整備部はそんな星像たちへ、星座の案件を紹介してマッチングを図る機関だ。就活風におき換えていえば、すばるのしていることはまんまリクルーティングといえる。
それが、星座と星像、星空環境創造整備部の関係のおおよそだった。そして、すばるは忙殺が基本の部署において、特に魔境と恐れられる人材開発課へ配属されていた。
読んで字の如く人材開発課は、有望な恒星を発掘するために設立された。
だけど、地球から観測できる星のうち、一等星を名乗ることのできた恒星は21個だけだった事実を引き合いにだすまでもなく、万年人材不足のこの業界では優秀な星なんて引き抜き尽くされている。かつての主業務だったスカウトは形骸化していて、実情として人材開発課がしていることは働こうとしない星像を働かせるか、使いものにならない星像を使いものにするかの二つに一つだ。
そういうわけで、人材開発課にはとびっきりの問題児が送りこまれてくる。そういった星像たちを更生するべく建てられたのがツヴァイ・ネブラ――星雲の揺りかごと銘打たれた教育機関なのである。同時に、すばるの職場だ。研修を終えて、すばるは今まさに教壇へ立とうとしているのだった。
ツヴァイ・ネブラでは、職員はステラと呼ばれる。胸のバッジがその証だ。ステラとは伴星という意味がこめられ、星像と二人三脚で星座を射止めるため粉骨砕身するのを使命としている。
渡り廊下で別棟へ移ると、いよいよ受けもつクラスが見えてくる。ドアへ手をかけた瞬間、研修を担当してくれた教官の声が生々しく蘇ってきた。
――そこにはとびっきり可愛い悪魔が棲んでいると思え。
深呼吸をして、ひと思いにドアを開け放つ。
目に飛びこんできたのは、飛来してくる謎の物体。すでに避けられる距離じゃなくて、目をつむることしかできなかった。
数瞬後、おでこに「ふにっ」と柔らかな感覚が当たる。床に落ちたそれを拾うと――
「じゅ、銃弾?」
とはいっても、グミみたいな感触で殺傷性なんてなさそうだ。すばるが訝しげに射線を辿ると、夜店でよく見かけるおもちゃの銃を構えた少女と視線が衝突する。頭の横辺りで揺れるうさぎ耳リボンが印象的な子だった。ロップイヤー風で、お辞儀するみたいに「へにょん」と垂れているから愛嬌抜群だ。
「ミュレイ渾身の一撃を受けながらぴんぴんしているとは☆ 一体、なにやつ!?」
「あの、ぼ、僕は――!!」
慌てて、自己紹介しようとする。深夜にまで及んだ練習の成果が発揮されると思いきや、お祭り少女がへんてこなポーズで遮った。
「いわなくてもわかるよ! ミュレイには全部お見通しだしっ☆」
「そ、そっか。僕のことは聞いているんだね」
そうだよね。普通に考えれば、新しいステラがくるって前もって周知されているはず――
「ミュレイのクラスを征服しにきた悪者めっ☆」
とんでもないところに胴体着陸しちゃったよぉぉ!?
「違う!? 全然、違うよ!?」
「逃げろーーー☆」
聞く耳をもたないお祭り少女は、前方へ色とりどりの鐘を生成すると、うんと広げた両手でそれらを鳴り響かせながら疾走する。非常ベルのつもりなのだろう。
音階の草原をかき分けて向かった先は――開け放たれた窓。躊躇など欠片もなく飛びだした。
「ナナルナ、チロル、待ってて! 今、助けを呼んでくるからねっ☆」
「えぇぇ!? ここ三階なんですけどぉぉ!?」
そんな心配もお構いなく、お祭り少女は「すたっ!」と百点満点の着地を披露すると、そそっかしい春一番のように駆けていく。
眼鏡をずりさげて呆然としているうちに、足元へちんまりした物体が転がっていることにきづく。「こんなところにオブジェ?」と首を捻っていると、目がばっちり合ってぎょっとした。
「誰です!? チロルが石ころになって、いいことなんて一つもない人生を消化するのを邪魔してくるのは!?」
ちょっと、厭世的すぎませんかね!?
丸まった体勢のまま世捨て少女は、この世の終わりとばかりに体を震わせた。またも手強そうな遭遇者にめげず、すばるは人畜無害スマイルで好印象の獲得に挑む。
「初めまして。今日から君のステラになる天戸すばるです」
「やぁ!? 怖いのです! 目が二つもあるのです!!」
君もだよ!?
衝撃の怖がりポイントに戦慄していると、横合いからキンキン声が飛んでくる。
「あんた、誰!? ゴミクズの分際で、なにチロルを怖がらせているのよ!! 今すぐ喋るゴミのくず箱におさまってなさい!!」
そんな斬新な分別ありません!
暴言少女は、すばるに見られることを心から鬱陶しがるように絶世の美貌を歪ませて舌打ちをした。それでも、すばるは失礼を承知で目を釘付けにしてしまう。
「な、なによ!? じろじろ見ないでくれる!!」
「いや、僕たち前に会ったことないかなって……」
「そんなわけないじゃない! あんたみたいなのに会っていたら絶対に通報してるわ!」
そうは言っても、すばるは確信していた。これほど綺麗な女の子がそうそういてたまるか。巨大望遠鏡に映った少女に間違いなかった。
「ナナルナっ!?」
どんな素材なんだろう――裾が透けた神秘的なスカートからのぞく真っ白な足で「ぽてぽて!」と駆ける世捨て少女は、そのまま暴言少女に抱きついた。
「チロル!? こんな怯えちゃって……どんな酷いことをされたの!?」
「チロル、この人に挨拶されちゃったのです! 温厚な人柄がうかがえる紳士的な挨拶だったのです! チロル、もう生きていけないのです!」
「最ッッ低の外道ね!! ブラックホールに飲みこまれちゃえばいいのに!!」
今の会話、おかしいところしかなくない!?
猛烈なアゲインストの風を感じながらも、若き教職者の闘志は衰えなかった――そうだ。言葉を尽くせば、きっとわかってもらえるはず――
「あぁ!? 口を開こうとしているです! こ、怖いのです!」
「口を閉じてなさい、このボンクラ!! チロル、他に怖いところはない?」
「うぅぅ……瞬きしているところもちょっと怖いのです……」
「瞬きも禁止!」
もう僕にどうしろと!?
注文通りすばるが石像と化していると、騒がしい足音が聞こえてくる。先のお祭り少女が戻ってきたのだ。その手には、甘い香りが漂う紙袋。
「運よく人気店のシュークリームを買えちゃったしっ☆ みんなで食べよー!」
あれ!? 君、助けを呼びにいくとかいってなかった!?
「ミュレイ、どこいってたのよ!?」
「うーん、さっきまでなにかの使命に燃えていた気がしたんだけど……たくさん走ったら忘れちった☆」
暴言少女の問いかけに、お祭り少女は「えへへ☆」と頭へ手をやりながら答える。この子には大事な用事を頼んではいけないと、肝に銘じた瞬間だった。
「いいからこっちに来なさい!! その男に近づいちゃだめ!!」
「んあ? このお兄さんのこと?」
お祭り少女はすばるをまじまじと見つめた後、「にへら」と笑ってシュークリームを差しだした。なんだか、とことん人懐っこい柴犬みたいだ。
「お一つどうぞ☆」
「……あの、僕のこと覚えてないの?」
お祭り少女は、宝石みたいな双眸をぱちくりと瞬かせながら――
「ミュレイってば、過去は振り返らない主義なんだ☆」
あぁ、これは折り紙つきの魔境ですわ。