二十世紀電氣目録
京都伏見の稲荷山に、商売繁盛の神様として名高い稲荷神社がある。
麓の本殿のほか、山中の至る所に末社やお塚が点在していて、明治四十年(一九〇七年)の今でも、社やお塚に宿る神様や霊を自分たちの家の神様と崇める、お塚信仰が盛んだった。
お塚や神蹟を縫うように伸びる参道には朱い鳥居が無数に連なっており、ほとんど山道ともいっていい険しい道を、百川稲子は八月の猛暑に耐えながら駆け上っていた。
紺絣の着物を菜の花色の帯で締めており、ねずみと米俵をかたどった帯留や、後ろで一つ結びにした三つ編みが歩くたびに弾む。蝉の鳴き声や枝葉のさざめき、お塚や末社で祝詞を唱える声などがあちこちから聞こえる山中に、カラコロと稲子の桐下駄の音が響いていく。
中腹にある四ツ辻から長い階段を上り、お塚が密集する場所を通って雑木林の中を抜けると、少し開けた場所に出た。そこからは鴨川に架かる勧進橋を渡る京電の電車、深草の歩兵第三十八連隊の兵営、そして七条の停車場などが一望できた。
この見晴らしのいい場所にあるのが、阿久火大明神という神様を祀るお塚だ。この辺りの山の斜面は一部岩肌が剥き出しになっていて、その岩壁にくっつく形で、賽銭箱と申し訳程度の台座があり、台座には大小の鳥居や供え物がたくさん奉納されている。
お塚と向き合った稲子は賽銭を入れ、二礼二拍手してから大きく息を吸った。
「次こそはあんじょうできますように」
目を強く瞑り、合わせた手を火を起こさんばかりに擦り合わせる。
「鈍くさいことしませんように。今度こそお父はんに怒られませんように。お稽古の三味線の弦が切れませんように。はよお姉ちゃんみたいなべっぴんになれますように。それとあと――」
一通り満足するまで拝み倒すと、続けて稲子は大祓詞を唱え始めた。
「高天原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美の命以ちて――」
ろうそくの匂いが漂い、蝉の声や草木のざわめきに自分の声が溶け込んでいく感覚に、ここは普段の喧騒から離れた神様が住む場所なんだと実感できて、心がじんわり安らいでいく。
すると稲子の声に添えるように、神楽の演奏がどこからか聞こえてきた。
この近くに神楽殿でもあっただろうかと、稲子は祝詞を唱えながら音の出所を探ってみたが、不思議なことに、どうにも演奏は岩壁の上の茂みから聞こえてくるようだった。
稲子が顔を上げたのと同時に音が止み、「あ」と、間の抜けた声がした。
岩壁の上で茂みが激しく揺れ動いたかと思うと、突然少年が勢いよく滑り落ちてきた。
悲鳴を上げながら落下してきた少年は、奉納された鳥居を盛大に尻で蹴散らした末に、地面に尻もちをついた。うめく少年の胸には、箱の形をした何かの機械が抱えられている。
突然のことに呆然としていた稲子だったが、もしや、と口に手をあてた。
「遂に神様が降りてきてくださった……!」
沸々と喜びが湧いてきた稲子は手を合わせ、少年を必死に拝み始めた。
「阿久火大明神様、阿久火大明神様、どうかうちの願いを――」
「ど阿呆」
拝む稲子の頭を、少年は機械から取り外したラッパのような部品で景気よく叩いた。
「あいたっ、何するんですか」
「こっちの台詞や。崖から落ちてきた人間に、何の手当もせんと拝む奴がおるか」
落ち着きを取り戻した稲子は、じいっと少年を観察した。木綿の絣の中にシャツを着こみ、小倉袴を穿いた姿はただの少年そのものだ。そうとわかると稲子は慌てて頭を下げた。
「堪忍です、てっきりうちの信心が報われて神様が現れたのかと」
「どうやったらそないな考えになんねん」
少年はため息をつきながら、手に持っていたラッパを機械に取り付けた。その様子を稲子が物珍しげに眺めていると、「蓄音機は初めてか?」と少年が訊いてきた。
少年は社の台座に蓄音機を置き、側面の取っ手を掴んでぜんまいを巻いた。巻き終わると中央に横向きに据え付けてある筒が勢いよく回転し始め、ラッパ――後で知ったがホーンという部品らしい――の先についた細い針を筒にあてがった途端、神楽がホーンから飛び出してきた。
「さっきのお神楽や。すごい、何で勝手に音が出るんやろう」
少年は蓄音機を止めると、ちくわのような筒を引き抜いて、稲子の手の平にそっと乗せた。
「それは蝋管いうてな。表面に細い溝が彫ってあるやろ。ここに針をあてて、その振動で録音された音を再生するんや。歌入りの蝋管やから、それ一本で一円ちょっとする」
金額に驚いた拍子に稲子の手から蝋管が滑り落ちた。地面に落ちる前に少年が何とか受け止めると、「ど阿呆、落とすな言うたやろ」と心底焦った顔をした。
「か、堪忍。せやけどびっくりするわ、京電に百遍は乗れる値段やもん」
「それでも平円盤よりは安い。それに蝋管にはおもろい特徴もあるんや」
少年は懐から出した別の蝋管を蓄音機に取り付けたが、さっきと違って音が出てこない。
「音鳴ってへんけど、故障?」と稲子が首を傾げると、少年は針を最初の位置に戻した。
『音鳴ってへんけど、故障?』
蓄音機から聞こえた自分の声に稲子がぎょっとすると、少年は満足気に笑った。
「こうして誰でも簡単に録音できるのが、蝋管蓄音機のええところや」
「えらい機械があるんやなぁ。何でそないなもんを持ち歩いてはるんですか」
「この近くの氏子さんの家の蓄音機を修理で預かってて、届ける前にお塚の上で試しに動かしてたんや。そしたらうっかり足滑らせて落っこちてしもてな」
「ああ、それでさっき――」
和んだ雰囲気になりかけたところで、鳥居や供え物がぐちゃぐちゃになったお塚の惨状にようやく気付き、「なんてバチ当たりなことを!」と稲子は叫び声を上げた。
怒りを露わにした稲子に、少年は「バチ?」と露骨に顔をしかめた。蓄音機に持ち手のついた蓋を被せて手から提げた少年が、稲子に侮蔑の眼差しを向ける。
「あいにく、俺は目に見えへんもんは信じひん主義なんで」
立ち去ろうとした少年の帯をすかさず稲子が掴み、地面に散乱した鳥居を指差した。
「散らかしたんなら、信心関係なしに片付けるのが筋やと思うけど」
渋面を作りつつも、少年は鳥居などを元の通りに整えると、お塚に向かって手を合わせた。
――ちゃんと拝みはすんねんな。そう感心しかけた稲子は、少年の目つきに息を呑んだ。
少年は手を合わせたまま、憎しみを込めた目でお塚を睨んでいた。
まるで親の仇でも見るような、恐ろしい眼差しだった。少年は一礼することなくお塚から踵を返し、「ほなこれで」と何事もなかったかのように立ち去っていった。
ハッとした稲子は、今の少年の不敬をお塚に謝るべく、慌てて祝詞の続きを唱え始めた。
「大倭日高見國を――」
少年の剣幕が頭に焼き付いていたせいかもしれない。あろうことか完璧に暗記していたはずの祝詞の言葉がとんでしまった。どうにか思い出そうとしていると、
「大倭日高見國を安國と定め奉りて」
少し離れた所で、少年が祝詞の続きを口にした。唖然とする稲子を馬鹿にするような目で一瞥してから、少年は立ち去っていった。
――何やの、あの男!
阿久火大明神へのお参りを終えた稲子は、頬を膨らませながら参道を下っていた。
お塚を荒らされた挙句、信心のない人間に助け船を出される。これ以上ない屈辱だ。
苛々しているうちに山林を抜け、木の塀が道沿いに並ぶ麓までやってくると、塀にもたれて立っている物乞いがいた。物乞いの白装束から覗いている足は、一本しかない。
稲子は物乞いの前で足を止め、「あの失礼ですが、その左足は……」と尋ねた。
「日露戦争でなくしました」
稲子の予想通り、その物乞いは廃兵と呼ばれる日露戦争の戦傷者だった。
「この辺りですと、第四師団の方ですか」
「そうです。三年前の二百三高地への総攻撃の際に、敵の砲弾が近くでさく裂して……」
戦場の記憶が蘇ったのか、物乞いの唇は震え、最後のほうはほとんど声がかすれていた。その様子に、稲子は迷わずなけなしの一銭を巾着袋から取り出した。
「あの、これ少ないですが」
「……おおきにすんまへん」
稲子の一銭に手を伸ばした物乞いだったが、突然「きええ」と奇声を上げた。
何事かと仰天する稲子の前で物乞いが身をよじり、ずぼん、と塀の中から失っていたはずの左足が現れた。足首にはムカデが巻きついていて、「ひ」と凍りついた稲子をよそに、物乞いは一目散に参道を駆け下りていった。
物乞いが立っていた塀を見ると、低い位置に足が一本入りそうな穴が空いていた。
「ここに足を入れて、片足をなくしたフリをしとったんか」
「当たりや、このど阿呆」
穴を覗いていると、突如向こう側から現れた顔に、今度は稲子が悲鳴を上げて尻もちをついた。穴越しにさっきの少年が笑っていて、軽やかな身のこなしで塀を飛び越えてきた。
「第四師団は二百三高地には行っとらん。ものの見事に騙されるところやったな」
「あんたはさっきの――」
「蓄音機届けた帰りに、いかにも怪しげな男の話に聞き入ってんのが見えてな。ちょうどええところにムカデが地面を這っとったから、それで灸すえたった」
先ほどのムカデを思い出して鳥肌が立った。幼少の頃に刺されて以来、ムカデは苦手なのだ。
「それはさておき。退治したお礼はたんまりいただきまっせ」
口元を歪ませる少年に、稲子は手元の一銭に目を落とすと、躊躇なく突き出した。
「一銭しかないけど」
稲子の反応が予想外だったのか、「冗談を真に受けるな」と少年がたじろいだ。
「うちからのお礼。騙されそうなところを助けてくれたから」
「一銭なんてもらいすぎなくらいや」
「そんならこれは神様へのお賽銭。悪戯好きの神様に助けていただきました」
やがて根負けした少年は渋々一銭を受け取ると、「おおきに、ええと……」と首を傾げた。
「うち? うちは百川稲子」
「……イナゴ?」
「いなこや!」と稲子は少年のすねを蹴とばした。
「な、何やいきなり、失礼な」
「さっきからどっちが失礼や。それで、あんたの名前は」
少年は目尻に涙をためたまま、それでも得意気な笑みを崩さずに言った。
「坂本、喜八」
同じ帰り道というので、喜八と名乗った少年と一緒に参道を下りることになった。
背は稲子より少し高いくらいで、歳は同じ十五歳。大津にある寺の生まれで、親戚の店を手伝いながら京都の中学校に通っており、今は夏休み中とのことだった。
話題がさっきの蝋管蓄音機に移り、開発者である「エジソン」という名に稲子が「誰それ?」と首を傾げると、喜八は愕然とした表情を浮かべた。
「エジソンを知らんのか。発明の神様やぞ」
「え、神様? ご利益は何? どこに祀られてはんの?」
「勝手に殺すな、アメリカで元気にしてはるわ」
それならと、恐らくアメリカがある方角に向かって稲子は手を合わせた。
「何やっとんのや」
「拝んでおけばご利益の一つでもいただけるかなと」
「そんなら男山八幡宮に参ったらどうや。エジソンは昔、白熱電球のフィラメントの材料にあの辺りの竹を使うたらしくてな、それで大成功したんや」
「フィラ……なんたらは知らんけど、ご利益はありそう。今度お参りに行かんとな」
「『あんじょうできますように』て、お願いするんか」
苦笑する喜八に、意気込んだ稲子は頬を熱くした。さっきのお祈りは丸聞こえだったらしい。
「……また今日みたいな失敗したら、そうお願いするかも」
稲子は、伏見で日本酒造りを営む百川酒造の次女として生まれた。
父の甚右衛門は、昔の武士を体現したかのような男で、稲子は幼少の頃から様々な行儀作法や習い事を叩き込まれてきた。姉がそつなく習い事などをこなす一方、生来何をするにしても鈍くさい稲子は毎日のように失態を演じ、その都度甚右衛門の雷が落ちていた。
とりわけひどかったのが、今朝の事件だ。
夕方に大事なお客さんが来るということで、家族総出で掃除をしていた。稲子はハエ捕り器という、小ぶりの金盥に入った石油の臭気でハエを落とす道具を使ってハエ退治に勤しんでいたが、途中で別の用事を思い出し、ハエ捕り器を廊下に置いてその場を離れてしまった。
直後に廊下で誰かが盛大に転げる音がした。まさかと思って戻ると、ひっくり返った金盥を頭に被って、ハエまみれの石油を顔に滴らせている甚右衛門が鬼の形相で待ち構えていた。
「散々怒鳴られた後、『掃除の手間が増える』て、追い出された」
隣で喜八がむせかえるほど笑っていたが、悔しいことに何も言い訳できない。
二人は山を下り、裏参道にやってきた。道沿いの土産屋には名物の伏見人形がずらりと陳列されていて、氷水や甘酒を売る茶店が並んでいる。
喜八は小腹がすいたのか、紙に包まれたビスケットを一枚取り出し、前歯で細かくかじり始めた。一枚勧められたが、見るからに質の悪い安物だったので遠慮しておいた。
「イナゴがあのお塚に参るのは、家で阿久火大明神を祀ってるからか?」
「ちゃうよ。うちの家のお塚は御膳谷。うちが阿久火さんのお塚に参るのはな……信心が認められると、阿久火さんからお手紙が届くからや」
喜八はビスケットをかじったまま顔を引きつらせ、心なしか稲子から少し距離を開けた。
「そうか……うん……不思議なこともあるもんやなぁ」
向けられた目には憐憫の情がこもっている。絶対、頭のおかしい女と思っている顔だ。
「ほんまやって。うちが子供の頃、お姉ちゃん宛に阿久火さんからお手紙が来てたもん」
「遠方に住む信者が祈願の手紙を送るのは聞くけど、神様からもろたという話は聞かんなぁ」
本当に神様から手紙が来ていたのに、と稲子はむくれた。
「とにかく、阿久火さんに参るのはそういう理由や。あとは、愚痴を聞いてもらってる。うち、鈍くさいから友達も少ないし、神様に聞いてもらってんねん。お賽銭は相談料や」
「本気で神様が愚痴を聞いてくれるなんて思ってるんか」
「信じることだけが、うちの取り柄やから」
自信満々の顔で言うと、喜八は「ふうん」と手についたビスケットの粉を払った。
「坂本さんは、何で阿久火さんのお塚におったん?」
「家で祀ってる神様が阿久火大明神なんや。ばあさんが昔修行して授かった神様でな」
稲荷神社でオダイさんという人のもとで修行を積むと、お塚の神様の力を授かるといわれている。喜八の家は寺にも関わらず、祖母が授かった阿久火大明神の分霊を封じ込めた社が特別に神棚に祀られており、「神様が逃げるから絶対に社を開けるな」と口酸っぱく教えられてきたので、この神棚の社のことを喜八は兄と一緒に「開かずの社」と呼んでいたらしい。
だから律義にお参りしているのかと感心しかけていると、喜八は笑って否定した。
「見晴らしがええんや。ようあそこに腰かけて弁当食うたりしとる」
不敬極まりない言葉に、やっぱりこいつ嫌い、と稲子は改めて思った。
京都電気鉄道の停留場に着くと、白と茶のういろのような見た目の電車が一両止まっていた。運行時に鐘をチン、チンと鳴らすこの電車は、京電の名で人々に親しまれている。
数年前までは先走りという少年が、電車の前を走って、「電車が来まっせ、危のおまっせ」と周囲に電車が通るのを知らせていたが、危険で重労働だったことから数年前に先走りが廃止され、代わりに車体の前後に事故防止用の救助網が取りつけられている。
「せや。せっかくやし、渡しとこうかな」
電車に乗ろうとした喜八は足を止め、引き札を手渡した。七福神の絵と一緒に『蓬莱仏具店』と店名があって、『機械修理仕候』の文言と住所、珍しいことに電話番号も載っていた。
「もし機械製品が壊れた時はごひいきに。初回はうまいビスケットで手を打ったる」
仏具店なのに機械修理とはこれ如何にと首を捻っていると、チン、チンと鐘が鳴った。
「愚痴があったら一銭持ってこい。おるかおらへんかわからん神様の代わりに聞いたるわ」
喜八は冗談めかしてそう言うなり、動き出した電車に飛び乗って去っていった。
「また不敬なこと言うて」
怒りながら引き札に目を落とすと、裏面に何やら書き込みがあることに気付いた。
「『電氣目録』……?」
その一文とともに、裏面には『夜不知』や『電砲』などの文字や説明文が走り書きされていて、図面のようなものも描かれている。所々斜線で消された箇所があり、何かの覚え書きのようだった。これは受け取ってよかった物だろうかと思ったが、返すあてもなかったので、稲子は気になりつつも引き札を片付けた。